第二十回 十七歳、ふたつの講演への反発

三原 浩良

◆前文部大臣にかみつく
 当時の松江高校では全校生を対象にした講演会がさかんだった。いや、わが母校にかぎらずどこの高校でもさかんで、著名な講師たちも気軽に出向いていた。
 一年の担任だった平本卓治先生の回想によれば、「生徒に広い視野を持たせることを意図して、当時としては破格の一流人物を呼んで講演を聞かせた」という(先輩教師の遺稿・追悼集(『しごならず』より)。
 回想には桑原武夫、久野収、岡潔、羽仁五郎、天野貞祐各氏の名があげられている。なるほど当代一流の顔ぶれといってさしつかえなかろう。
 わたしの在籍三年をふくむ五、六年のあいだのことだろうから、そのすべてを聞いてはいない。記憶に残るのは、英文学者の福原麟太郎、前文部大臣の天野貞佑、哲学者の柳田謙十郎氏などだが、同期生に聞くと、羽仁五郎氏も覚えているという。
 平本さんによれば「講演のあとで必ず質問の時間が設けられていた。羽仁氏は二千名の田舎の高校生の前で、素朴だが鋭い質問にやや尊大な応対をされたように思えた。生徒の評価は必ずしもよくなかった。カント哲学者の天野貞佑氏の場合は、全体として批判的な空気の中で文部行政に対する厳しい質問にも一つひとつ丁寧に説明を尽くされたのがかえって生徒の好評を買ったように思えた」という。
 わたしにとって忘れられないのは、いずれも西田幾多郎門下の哲学者・天野貞佑氏と柳田謙十郎氏。でも十七歳のわたしが、あの禅問答のように難解な観念哲学の世界に興味をもっていたわけではない。
 天野貞佑氏は、前年まで吉田内閣の文部大臣をつとめ、「道徳教育の必要性」を訴えて「修身の復活だ」と非難され、公立学校に「日の丸、君が代を国旗、国歌として掲揚、斉唱」するよう命じる最初の通達をだして社会党や日教組などから「保守反動」と糾弾されている渦中の人物だった。
 さすがに講演の内容はもう覚えていないが、「批判的な空気の中で」の講演で、生徒からは「文部行政に対する厳しい質問」が飛んだらしい。わたしも質問時間になると真っ先に手をあげた。
「あなたは戦時中の自分の言動に対して責任をとられたのか? あの戦争にあなたの責任はなかったのか」
 質問というより詰問である。若さの蛮勇おそるべし。天野氏は憤然として「学生は黙って勉強してりゃいいんだ」と不機嫌そうに述べただけだった。二千の生徒でむんむんする体育館はしーんと静まりかえってしまった。

◆「別の立場の人も」と柳田謙十郎氏を招く
 文部大臣として戦後の教育を「戦前回帰」させようとする天野氏は、わたしには文字どおり〝保守反動〟と映った。
 だから、このまますませてなるものかと、学校側に次の講演では天野氏とは立場の異なる別の講師を招聘するよう働きかけた。
 とはいっても、田舎の高校生に著名人とのコネがあろうはずもない。アテもなにもない無謀な提案である。
 西田門下の観念哲学とは対極にあるマルキストに転じ、「わだつみ会」の初代理事長として機関紙や主宰誌「人生手帖」でさかんに平和運動を呼びかけていた柳田謙十郎氏がよかろうと、「わだつみ会」や京大の先輩たちを通じて頼んでみた。
 ところが意外や意外、話はとんとん拍子でまとまった。今から思えば信じられないことだが、学校側もそれを受け入れ、柳田氏の講演があっさり実現してしまった。
 京都から日帰りでやってきた初対面の柳田氏は当時六十歳、初老の温厚な紳士だった。その送迎につきそい、校長室まではいりこんで講師を校長に紹介するわたしを学校はどうみていたのだろうか。
 おそらく職員室では議論もあっただろうが、当時の学校にはそんなことにはあまり頓着しない、懐深い自由があったように思われる。
 天野氏への反発から、わたしは溜飲のさがる思いでこの講演を聴いた。

◆「一等寝台」と清水幾太郎氏
 松江のような田舎町で著名人の講演会が開かれるのは、ごくたまに巡回してくる文藝春秋の「文芸講演会」か、岩波書店の「文化講演会」くらいのものだった。
 テレビのない時代、都会から田舎に「文化」や「思想」の匂いを肉声で運んでくる機会はそうそうなかった。だから岩波の講演会で清水幾太郎氏がやってくると聞いて、聴衆でいっぱいの市の公会堂にもぐりこんだ。
 清水幾太郎氏は、柳田氏より十歳ばかり年下で昭和28年(1953)当時、五十歳を出たばかりの気鋭の社会学者(学習院大教授)で、当代随一の論客だった。
「清水幾太郎とその時代」(「早稲田大学文学研究科紀要」44号、1999年)によれば、「氏はある年齢以上の人でその名前を知らない人はいないだろうが、ある年齢以下の人でその名前を知っている人は少ない」いまでは「忘れられつつある思想家」だという。
 清水氏は戦後の「進歩的文化人」と称される一群の知識人の代表格で、「全面講和か単独講和か」をめぐる激しい論争では、「全面講和」派のリーダーとして論陣を張っていた。
 先の「紀要」は「清水にとって1953年は〝内灘の年〟であった」としている。
 対日平和条約・日米安全保障条約発効して一年、米軍は石川県内灘村に設けた試射場の使用期限を数ヶ月から無期限に変更すると通告してきた。これに抗議する農民は実力阻止の座り込みをはじめ、北陸鉄道は軍需物資の輸送拒否ストにはいるなど激化する〝内灘闘争〟は全国的に注目されていた。
 清水氏は岩波の看板雑誌「世界」に「内灘」を発表するなど反基地闘争の先頭にたっていた。その論文はたしかに読んだ記憶がある。だからこの講演はぜひとも聴きたかった。
 細部までは記憶にないが、身ぶり手振りの熱のこもった講演だった。
 だが、わたしは講演で清水氏がもらした片言に強い違和感をおぼえ、「これは?」と疑念を抱く。それは氏が何度も内灘に足を運び、全国行脚をつづけていることを熱く述べるくだりで唐突に飛び出したひと言だった。
「一等寝台で全国をかけめぐる」ことがいかに大変か、いかに自己犠牲をはらっているか、そのことをやや愚痴っぽく洩らしたのである。「一等寝台」に乗るのが悪いとは思わぬが、その語り口に強い不快をおぼえた。理屈ではない、感情が強く反応した。
 そんなささいなひと言にひっかかったのは、満員の聴衆のなかでおそらくわたし一人だったのではなかろうか。およそ説得力のない感情的反感だから、誰にも話さなかった。
 ところが、先の「紀要」の執筆者は「一等寝台車の温かい毛布の中で〝革命〟的大演説の構想にふける高級で〝進歩的〟インテリにとっては一切が革命に見える」のだ、とこの〝進歩派知識人〟のもうひとつの顔をえがいてみせる。
 おや、さすれば、清水氏はこの「一等寝台」の話を、あちこちでしゃべっていたのか。
 講演会場で抱いたわたしの違和感はその後も持続し、清水氏が全学連と歩調をあわせた60年安保闘争後に日本の「核武装」まで言い立てるような「大転換」を遂げても、さして驚きもしなかった。
 どうやらわたしは「論」よりも「情」で物事を決めつけようとする性癖の持主らしいと自覚した最初かもしれない、といまにして思う。