第二十一回 生徒会は「民主主義」のレッスン?

三原 浩良

◆受験体制の強化と生徒会
 二年生の秋、生徒会長に立候補した。と言っても積極的に、ではなかった。やむをえずといったほうが近い。
「受験の波ますます激しく我々の周囲におしよせ、あわや生徒会の存在も疑われるに至った」
 当時の「松高新聞」(昭和29年10月、二〇号)が、危機感もあらわに書いている。
 入学時の選択科目フリーのモザイク制が、翌年からは受験体制を強化するためのコース制にかわった。
「年表」昭和28年の項によれば、この年東京では大学受験予備校がいっきょに十数校も増え、人気予備校の入学?競争率は10倍にもなり、大学受験競争の過熱がはじまっている。荒波はときをおかず、地方にも波及したのだろう。
 そんな背景事情のなかで、前生徒会長が任期満了で退任したあと、半年経っても生徒会長に名乗りをあげる者は現われなかった。「これでいいのか」と、「松高新聞」は絶叫していた。
 絶叫ばかりしていても仕方がない。前会長も新聞部の先輩だったから、と押し出されるように立候補した。対立候補は出ない。信任投票の結果―。
  信任   1575
  不信任   220
  無効    68
  投票総数 1863
「84%という圧倒的な信任を得た」と、「松高新聞」は書いているが、わたしは二百二十人の不信任票のほうが気になった。
 その「松高新聞」に載っている就任の弁―。
「全校二千名のうちクラブ活動を熱心にやっている人はほんのわずかだと思うと情なくなります。何とか工夫してクラブ活動を活発にしよう」

◆教師の暴力・暴言に抗議
 就任直後に厄介な問題が起きた。
 ひとりの教師が、将棋板を教室に持ち込んだ生徒を殴打して退学を勧告、休み時間にこの将棋板で将棋をさした六人を教官室に立たせ、別の生徒にもささいなことから暴力をふるった。
 別の教師は「運動部にはロクな奴がいない。学校はガムシャラに学ぶところだから、運動部は廃止だ」と教室で暴言をはいたというのである。
 これに生徒が怒った。とりわけクラブ活動と受験勉強の両立に悩みながら猛練習をつづけている運動部員たちがカンカンに怒った。こんな教師の「暴言」にも受験体制強化に走る学校側の焦りがにじんでいたように思う。
 生徒会は執行委員五人からなる調査委をたちあげ、ふたりの教師に言動の真偽を確認して報告、これを受けてひらかれた生徒総会は二時間にわたる討議のすえ、3点を決議した。
  ① 運動部への発言の取り消しを求める
  ② 今後は誠意ある授業を求める
  ③ 再発なきよう求める
 代表団がふたりの教師にこの決議を伝えると、両教師とも非を認め、決議を了として「円満解決に成功した」(「松高新聞」)。
 当時の高校の生徒会は生徒の自主性が尊重され、教師からの介入や強引な指導はほとんどなく、極めて自由だった。
 教師に「誠意ある授業を求める」というのが、おかしい。身につけたばかりの「民主主義」の実践であった。

◆圧力に屈した? 予算編成
 さて、新執行部の初仕事は予算の編成である。これがまたなかなか厄介だった。
 予算編成の柱はクラブ活動各部に予算をどう配分するかである。前年を参考にしながらも、わたしは予算の大半を運動各部が占めてしまうことに疑問を持った。
 各部の主将たちに聞いてみれば、無理からぬ事情もある。文化各部より運動部は金がかかるのだ。音楽部や美術部、新聞部などの予算をもう少し増やしたいのだが、あちら立てればこちらが立たずで悩ましい。思い切って運動各部の予算を少しずつ削って文化各部に回そうと考えた。
 そんな情報はすぐに洩れる。激怒した柔道部の主将や日頃は親しい部員が、汗臭い柔道着のままわたしが所属するもうひとつのクラブ、社研の部屋になだれ込んできた。
「削れるもんなら削ってみろ。ただじゃおかんぞ」と凄い剣幕である。部屋の羽目板を足蹴にして、何とも激しい示威行動を繰り返す。これには参った。
 脅しに屈したわけではないが(いや、屈したのかな)、「分かった、分かった」と、前年同様の運動部予算を確保せざるを得なかった。
 ちょっと情けなかったが、彼らに事情を聞けばやむを得ない面もある。自らの浅慮を恥じ、これもまた「民主主義」のお勉強、とあっさり引き下がって幕を引いた。

◆生徒会を横につなぐ試み
 松江高校にかぎらず、どこでも受験体制の強化で、それまで活発だった生徒会活動は方向性を見失い、低調になりはじめていた。
 この年、島根県は県立高校の授業料を一挙に5割値上げする条例案を議会に提出していた。5割値上げとはあんまりではないか、と条例を審議中の県議会文教委員会を十数人で傍聴して抗議した。
「高校生が授業を放り出して生意気に……」そんなニュアンスの記事が全国紙の地方版に載り、委員会はさっさと原案どおり可決してしまった。
 一校だけの抗議ではゴマメの歯ぎしりだ。生徒会も横に手をつないで組織化すべきではないか、と思いはじめた。
「わだつみ会」の活動を通して、列車で一時間余の大田高校の生徒会長をやっていた清水君と親しくなっていたから、あるいは彼の提案だったかもしれない。
 大田高校のグループとは夏になると、双方十数人ずつが集って三瓶山麓にキャンプを張り、歌ったり、踊ったり、食事をともにして交流していた。そんな交流から清水君と話がまとまったのではないかと思う。
 話はとんとん拍子に進み、彼とふたりで手作りの「島根県生徒会連合会規約」を鞄に詰め、授業を休んでは鈍行列車で主だった高校の生徒会を訪ねあるいた。しかし、せっかく訪ねても冷ややかな生徒会もあれば、学校側の規制の厳しいところもあって、ことはなかなか順調には進まなかった。
 こうして何とか島根県生徒会連合会(略称「県生連」)の発足にこぎつけたのだが、各校の温度差がおおきく、その後の活動はお世辞にも活発とはいいがたかった。
 そんなこんなで、二年生の三学期には「あいつ、授業休んでばかりだから出席日数不足で進級できないんじゃないか」という声が級友のあいだから聞こえてきた。
「県生連」の〝出張〟でだいぶ授業を休んだのは事実だから、これには少々おびえ、おそるおそる担任教師に尋ねると「まあ、何とか大丈夫じゃないか」と言われて、胸をなでおろした。どうやら〝出張〟は公認の出席扱いだったらしい。
 結局、「県生連」の結成でえたものは、大田高校生徒会長の清水君との友情だけだったのかもしれない。意気投合した清水君とはのちに同じ大学を受験したが、明暗をわける残念な結果になり、やがて音信も途絶え、壮年で他界したと人づてに聞いた。
 いまでも大田市を車で通りかかると、山陰線の線路わきにあった母子家庭の彼の家を訪ねたことが思いだされ、感傷に胸がいたむ。