第二十二回 ジャズと美空ひばりとアメリカ

三原 浩良

◆ジャズは「植民地的狂騒」か
 いま、手もとに黄ばんでボロボロになった松江高校の「生徒会誌」1954年版(昭和29年)がある。一年間の生徒会活動(クラブ活動)をまとめるかたちで、卒業間近の三年生の編集で毎年発行されていた。
 論文、エッセー、座談会、教師の寄稿、詩、小説ありのA5判、100ページ足らずだが、堂々たる体裁である。
 二年生のわたしは、巻頭論文「大衆娯楽と政治」とルポルタージュ「不況のどん底石炭界」の二本を寄稿している。
 後者は、市郊外にあった零細炭鉱のルポ。閉山一年後の炭住には三十八世帯二百人足らずの人たちが暮らしていた。大半が山口や九州からの移住者で地域との結びつきは弱い。生活は困窮し、地域の社会問題化していた。
 同情的な声もある一方で、失業した労働者を「同情裏切る怠け者」などと書く新聞もあったので、生徒会からのささやかなカンパ一万数千円を持参しての二度にわたる取材だった。
 いま読み返してみて、この零細炭鉱終焉の人々の姿を記録した文章は、一般紙をふくめおそらくこのルポだけではなかったかと思う。拙いながらいささかの自負もある。
 しかし、前者「大衆娯楽と政治」のほうは、読み返しても冷汗がにじみ、赤面する体ののしろものである。
「ジャズの植民地的狂騒は今日の暗い世相を形作っている」と断じ、例証として「余りに保守的な人物によって、ジャズは何らかの意味で新しく認められた訳である」という「中央公論」誌の指摘を引いて強引に政治と関連づけ、「ジャズが植民地的狂騒から独立国的平静に帰るのは何時の事だろうか」と結んでいる。
「ジャズと言ってもアメリカのそれは聞いたこともないから、ここでは現在日本で流行っているもの」について論ずると断わっているものの、いま読めば噴飯ものとしか言いようがない。その数年後には東京のジャズ喫茶にいりびたって、モダンジャズに身をふるわせていたのだから。

◆ジャズの流行と逆コース
 しかし、こんなしろものを書くにいたった背景には、時代が投影されていたと言えなくもない。
「年表」51年の項には「53年にかけてアメリカンジャズ流行」とあり、ジャズの大流行をうかがわせ、同時に「BG」「社用族」と並んで「逆コース」が、この年の流行語であったと記している。
 53年(昭和28年)の「中央公論」は、特集「日本はアメリカの植民地か」を組んで、「植民地か従属国か」の論争が巻き起こっている。
 この年には内灘などで反米基地闘争が激しくなり、日米安保をめぐって保守・革新のせめぎあいが先鋭化していた。そんな時代の空気のなかでのジャズの流行だった。
「生徒会誌」掲載の文化クラブの座談会をみると、「ジャズ植民地的狂騒」論も、あながちわたしだけの偏見ともいえないようだ。

「この間、ジャズコンサート(レコード・コンサート=筆者注)で校内の空気をやわらげようとやったけど批判の声が強かった」
「あんなのはもっと考えてやって欲しいな」
「要するに病的な雰囲気なんだな。勿論、ジャズにも良い曲もあるけど、もっと健康なものを求めて欲しい」
「ジャズもよいけど場所が学校だから非難の声が強かったのではないかしら」

 などの三年生の声を記録している。
 そうか、ジャズ=「植民地的狂騒」というわたしの短絡にも、時代の空気が反映されていたんだ、といまにして思う。

◆ひばりへの共感と嫌悪
 翌年の「年表」には、「美空ひばり(15歳)、本年度所得809万円。所得番付歌手部門1位」とある。
 この年の流行歌は「上海帰りのリル」「芸者ワルツ」「若者よ」などと並んでひばりの「リンゴ追分」、江利チエミの「テネシー・ワルツ」があげられている。
 ひばり、チエミ、雪村いづみの三人は、いずれも昭和12年(1937)生まれ、わたしと同い年。だからこの三人、とりわけひばりには複雑な思いを抱いてきた。いささか乱暴にくくれば、共感と嫌悪とでも言えるか。

  ♪丘のホテルの赤い灯も 胸のあかりも消える頃……(「悲しき口笛」昭和24年)

 ひばりの出世作、この歌を主題歌に制作された同名の映画もヒットした。この映画を自宅近くの陸軍歩兵連隊の旧兵舎で見た。シルクハットに燕尾服姿で踊る12歳の戦災孤児役の彼女を、12歳のわたしは暗闇で見つめていた。
 やはり同年の阿久悠も、ひばりには特別なわだかまりがあったようだ。
「この歌でぼくは、同年を誇り、そして、怯んだ」「同年であることによって、ぼくの美空ひばり観は、他の人といささか違っている。何故か彼女には、最初からかなうはずのない人、という思いがあった。同年のせいかもしれない」(『愛すべき名歌たち』岩波新書)
 またこうも書く。「ぼくは、偉大な存在であるところの美空ひばりから逃げまわっていて、ついに、真っ正面から対してヒット曲を作らなかった」
 彼はひばりへのわだかまりを繰り返し書いている。それはヒット曲を連発した作詞家・阿久悠としてのものだが、はたしてそれだけだったのだろうか。

◆「アメリカ文化」受容への嫌悪
「共感と嫌悪」と書いたが、実のところ「複雑な思い」の内実は自身でもよくわかっていない。
「そういうことだったのか」と思い当たったのは、演出家の鴨下信一氏の『誰も「戦後」を覚えていない』(文春新書)の指摘によってであった。
 少し長くなるが、引用してみる。
 
 三人とも時代の子で、英語っぽく唄いたがった。そのやり方は三人ともちがう。チエミは「テネシー・ワルツ」などで英語を日本語化して発音し、いづみは「遥かなる山の呼び声」などで日本語を英語のように発音した。ひばりは内容も方法も(そうしてしばしば曲も)まったく日本だったが、微妙に唄い方だけを英語ふうにした。
 よく考えると、戦後の日本人の英語文化(アメリカ文化)の受容は、ひばりのやり方にいちばん近い。ひばりの唄は、その意味で戦後日本のシンボル的存在なのだ。
 ひばりを見、その歌を聴くことは、日本人にとってそのまま自分を見ることだった。彼女は観衆一人一人の分身だった。ここに喝采と嫌悪両方の根源がある。誰だってナルシストだし誰だって自己嫌悪はある。

 そうか、わたしの「わだかまり」とは、「アメリカ文化」受容への嫌悪であり、それはまた自分の映る鏡への反発だったのか。