第二十三回 初心なマルクス・ボーイたち

三原 浩良

◆「矛盾論」の新中国
 一年後の昭和31年(1956)、卒業直前に発行された「生徒会誌」に、わたしはまたもや寄稿している。
 そのタイトル「日本資本主義の出発点―地租改正」、なんとまあ大きく出たものだと、いまさらながら驚く。
 近世経済史から明治維新をどう読み解くか。当時はなやかだった労農派と講座派の論争を引きつつ、「この歪んだ土地革命(地租改正)こそ今日の日本の農業の、日本の経済の、又日本の悲劇の因ではなかろうか」と、ふりかざした鉈をおろしている。
 その意気や壮、なれど……。E・H・ノーマンから遠山茂樹、野呂栄太郎、山田盛太郎、井上清などなど、原稿の大半を文献の引用が占めている。
 高校時代のわたしは、マルクス・ボーイであったこと歴然、先輩にリクルートされてはいった「シャケン」(社会科学研究部)では、「共産党宣言」を手始めにマルクス・ボーイの入門テキストを次々に読んだ。
そのころ、中国から帰国した大石浩行君が新聞部にはいってきた。
 大石君のお父さんは、旅順工大で学んだ冶金・採鉱の専門家。別の大学で教鞭をとっていたとき召集されたが、即日除隊されて石炭鉱山の経営をまかされた。増産につぐ増産で新鉱区を発見するなどの業績をあげたため、敗戦後は中国に一家とも抑留されたという。
 このため昭和28年(1953)になってやっと帰国を許され、一家で親戚をたよってひとまず松江に身をよせた。
 わたしのそれまでの中国のイメージは、パールバックの『大地』や魯迅の『阿Q正伝』などから得た乏しい知識で形成されていたから、大石君から聞く革命後の新中国の話は新鮮で面白かった。
 彼はコミュニストではなかったが、おそらく中国での教育で得た知識だったのだろう。毛沢東の「矛盾論」や「実践論」も彼におそわった。岩波文庫版『実践論・矛盾論』の刊行は57年だから、それより早かったことになる。
 彼には中国の古い「恋唄」もおそわったが、数十年後に訪れた中国で歌ったところまったく通じず、中国の若いひとたちは首をかしげるばかりだった。あやしげな発音の「恋唄」同様、「矛盾論」もわたしの身にはつかなかった。

◆「尾行に注意せよ!」
 そのころ、マルクス・ボーイたちは「シャケン」の部室や先輩の下宿に集まり、地元の大学生もまじえてテキストの輪読をやったり、議論をくりかえしていたはずだ。だが、マルクス・ボーイたちの日常については、ごく断片的な記憶しか浮かんでこない。
 ある日、街の小さな本屋で社会科学の棚の前で本を探していると、顔見知りの大学生に声をかけられた。大きな声で挨拶すると、声をひそめてたしなめられた。
「どこで見張られているかわからん。もっと慎重に行動しろ。尾行にも注意しろ」
 それだけ言うと、彼はさっと離れていった。
 見張り? 尾行? どうして? わけがわからぬまま「はい」と答えたが、何か警察にマークされるようなことをしていたのだろうか。本を探しているだけなのに……。
 おそらく彼は大学の共産党細胞(フラクション)に属し、日常的にそんな警戒が必要な活動をしていたのかもしれない。
 昭和28年(1953)、まだ世情は騒然としていた。前年5月のメーデーはいわゆる「血のメーデー」といわれ、警官隊とデモ隊が皇居前広場で衝突し二人が射殺され、千二百人以上が検挙されていた。
 共産党の機関紙「アカハタ」は非合法時代を脱してやっと復刊していたが、全国各地で交番が次々に火炎ビンで襲われたり、爆破されたり、ストライキも頻発、共産党をターゲットにした「破壊活動防止法」が成立していた。共産党員やそのシンパたちは神経をとがらしていた。そんな時代だった。
 それにしても、「尾行に注意しろ!」には驚いた。

◆「屋根伝いに逃げろ!」に仰天
「ミンセイ」に入団の誘いを受けたのは、それから間もなくだったと思う。誰から誘われたのか思いだせない。おそらく高校の先輩からだったろう。
 後の「ミンセイ」(日本民主青年同盟)は新左翼各派から目の敵にされることになるが、当時は「日本民主青年団」と名乗っていた。
 先の大石君らとその「ミンセイ」に入団したが、特別な活動をした記憶がない。せいぜい機関紙「ワカセン」を定期講読するくらい。略称「ワカセン」は、「若き戦士」の略称。共産革命の「若き戦士」というわけである。「ワカセン」は謄写印刷で、題字の横に革命旗を掲げ、斜め上方を見上げる若い男女のカットが描かれていた。
 ところが、入団間もなく、東京で開かれる民青の大会に参加するよう要請を受けた。東京への好奇心半ば、義務感半ば、中学以来の親友・池内英之君とふたりで上京することになった。二人とも東京ははじめてである。
 ネットの資料によれば、おそらくふたりが参加したのは、昭和29年(1954)4月の「民青団第3回躍進全国大会」ではなかったかと思う。
 松江~京都、京都~東京と鈍行列車を乗り継いで二十四時間かかって生まれてはじめての東京に着いた。手元にあるのは、八重洲口のビルのアドレスだけ。そこで行先を指示されるという。
 東京駅に着いたものの、地理不案内でそのビルがどこにあるやら見当もつかない。ままよ、とタクシーに乗った。タクシーは駅構内を出て信号をひとつ越えたところで、「ここだよ」とおろされた。何のことはない、徒歩数分のところだった。運転手が不機嫌になるのも無理はない。
 そこからがまた不思議だった。事務所に詰めていた人の案内で宿舎に向かう。何度も電車を乗換え大きな川を渡り、二階家に案内された。
 細々とした注意のあと、案内の人は二階の窓を開け放って、「逃げるときは、ここから屋根伝いに逃げなさい」と言う。
「エッ、逃げる?」
 何のことだか、分からなかった。彼は一階に降りると、そのまま梯子をはずして姿を消した。梯子は取り外しがきくようになっており、これでもう下には降りられない。これにはまた驚いた。いわゆるアジトのひとつだったのだろう。
 さいわい屋根伝いに逃げだすようなことは起きなかったが、これじゃあまるで小林多喜二の時代ではないか。新米マルクス・ボーイは驚くことばかりだった。
 だが不思議なことにその「民青」の大会の模様も会場も全くおぼえていない。いくら記憶の底をさらってもかけらも出てこない。
 覚えているのは、「いざとなったら逃げる」ために窓から見おろした東東京の下町の匂いと、潮騒のように押しては引いていく騒音だけだった。
 不思議な東京初見参だった。