第二十四回 大学より街がおもろかった

三原 浩良

◆受験体制強化に反発して
 先の「生徒会誌」掲載の大論文?「日本資本主義の出発点」の末尾に「二月八日」と脱稿の日付がある。卒業一ヵ月前である。
 級友たちは受験勉強の追い込みにはいっていた。休憩時間も赤尾のマメ単に赤線を引き、参考書と首っ引きで、何だか目つきもとんがって、教室には緊張感がただよっていた。
 そんな時期なのに、わたしといえば、無謀にも難解な唯物史観学者たちの論文の束に挑んでいたことになる。
 もともと学校の受験体制強化に強い反発を感じていたから、受験勉強なんてさっぱりやる気がない。
 大学に行こうとはきめていたが、どっかに入ればいいや、くらいの軽い気持ちだった。自信があったわけではない。いや自信など全くなかった。
 それでも、やっと「蛍雪時代」という受験雑誌をはじめて買い求めて、遅まきながらさてどこを受験しようかと思案しはじめた。
 もともと理数系は苦手、文系は何とかなりそうだが、それも暗記物は不得手。八科目も受験科目のある国立大学などハナから無理と諦め、とにかく受験科目の少ない大学を探し、五教科(英・国・理・数・社)でも受験できる大阪市立大の経済学部と三教科(英・国・社)だけで受験できる早稲田の文学部に絞った。
 一年以上まえから目標をさだめて勉強している級友たちにくらべれば、安直きわまる選択である。
 クラス担任との面談で志望を述べると、真剣には対応してもらえなかった(ように記憶する。いや、当方だってそんなに真剣ではなかったのだからおあいこか)。わたしの学力では「いずれも無理」と判断していたのではなかろうか。
 大方の級友たちも「あんなことばかりやってりゃ、落ちるに決まってるよ」と、冷ややかに見ていたような気がする。
 大阪市大経済学部を選んだのは五教科のせいもあったが、当時の恒藤恭学長がかつて京都大学で起きた〝滝川事件〟に連座して文部省に罷免された法学者だったこと、くわえて同郷の大先輩であったことなども影響していたのかもしれない。母によれば恒藤教授は幼少のころは母の実家近くに住んでいたということだった。
 早稲田に特別な理由はない。文人やジャーナリストを数多く輩出しており何となく自由な雰囲気のように見えたから。今から思えばそれもあまり根拠のない理由であった。
 
◆合格はしたものの……
 結果は、大阪市大も早稲田も合格だったから、試験なんてわからぬものだ。級友たちにも担任教師にも「意外」にうつったようだった。
 さて、東京にするか大阪にするか、迷ったが、「学費の安い方にしてくれ」という父親のひとことで、大阪になった。無理もない。五人兄妹の長男、後に次々控えているから親にしてみれば、少しでも学費の安い方がよかったに違いない。もともとそんなに強い志望理由があったわけでもないから、じゃあ、と大阪に決めた。
 確か当時の国立大学の授業料は年間一万二千円、早稲田はその倍くらいだった。大阪市大は国立と同額だったが、市外からの入学者は年間千円だけ高かった。
 そんな次第で春四月、中学の修学旅行以来の大阪に向かった。

 大阪市の南部、阪和線の杉本町にあった大阪市大のキャンパスは、米軍の接収から返還されたばかりのようで、米軍人のためのチャペルやペンキの剥げたカマボコ型の兵舎がそのまま校舎に転用されており、いささか荒涼たる印象だった。
 それより何より学内の雰囲気になじめなかった。町の人たちは「市大」とは呼ばず、「商大サン」と呼んでいた。前身の大阪商大由来の呼称らしかった。経済学部のはずなのに何だか商学部のような雰囲気に抵抗をおぼえた。
 講義も例の「上部構造・下部構造」論や弁証法ばかり、マルクス経済学入門編のような感じで、高校時代にすでに読んだテキストのコピーのようで、がっかりした。
 くわえてこのころ、わたしはプライベートな事情もあって、そんな理論や運動にやや懐疑的になっていたから、よけいに面白くない。
 入学間もない六月ごろから学校には足が向かなくなってしまった。一種の五月病だったかもしれない。

◆学部事務長の下宿訪問
 大阪市大は学生をたいへん大事にする大学だった。驚いたのは大学事務局にアルバイト課があり、アルバイト課長がいたこと。大阪じゅうをはしりまわって条件のいいアルバイトをさがしては紹介してくれる。ここで家庭教師のクチをふたつも紹介してもらえたのはありがたかった。
 ある夜、下宿に帰ってみると、四畳半のむさくるしい部屋で学部の事務長が待っていた。もちろん初対面である。
「君は最近ずっと講義に出てないようだが、どうしたのか」
 穏やかに詰問された。中学、高校ならいざ知らず、大学でも不登校学生の家庭訪問があるとは、驚きかつ恐縮した。
 ここまで懇切な対応をされては、いい加減なことは言えない。早稲田を受験しなおすことにしていたから、正直に転学の意思を伝えた。何度か翻意を促されたが、「もう決めたことだから」と断った。
「そうか、そこまで聞いたからには、このまま奨学金を出し続けるわけにはいかんなあ」
 と告げられた。やむを得ない。
 それにしても、大学の学部事務長がわざわざ一年坊主の下宿を訪ね、その帰りを夜まで待って、転学を思いとどまるよう説得する。そんな親切な大学が当時もいまも他にあっただろうか。やめると決めたもののこの大学には、いまでも深い敬意をおぼえている。

◆大学よりバイトが面白くて
 さて、転学と決めたが、早稲田は大阪市大と比べれば、入学金も授業料も格段に高い。いまさら親にすがるわけにもいくまい。家庭教師にくわえアルバイトで入学金を稼ぎだすことにした。
 たまたま高校時代の数学の教師が、大阪の大手教科書出版社の編集長に転職していたので、頼みこんでもぐりこんだ。
 最初の仕事は高校の国語参考書、俗にいう虎の巻の校正。やがて小中学生向けの国語辞典や百科事典を作る新しいセクションへ。編集長以下四人の小さな所帯だった。
 スタッフは新卒の女性にアルバイトの小生。キャップはのちに文芸評論、書評家として活躍する向井敏さん(当時は阪大仏文科の院生)。向井さんは、開高健や谷沢永一らの同人誌「えんぴつ」にくわわり、みんな〝文学修行〟中だった。
 その向井さん、阪大時代に府学連書記長だったことや、飛田遊郭街のマージャン屋に入りびたりだったことなどなどは、いずれも後年知ったことだが、当時はそんなことはおくびにももらさなかった。
 こんな仕事仲間だから面白くないわけがない。歯切れのいい大阪弁で聞く文学談義や雑学の世界にすっかり魅了される日々だった。
 うんと後のことになるが、詩人の荒川洋治さんがエッセーなかでこの百科事典にふれているのを知り、驚いた。荒川さんはちょうどひとまわり下だから、当時はまだ福井県三国町の小学校低学年だったはず。町に本屋さんがなかったので、生まれてはじめて本を郵便で注文して到着を待つときのわくわくする思いをつづっていた。それがこの百科事典だったのである。
 時空をこえて本が結ぶ不思議なえにしに、わたしもちょっと興奮して荒川さんに書き送ったら、話題の新刊詩集『渡世』が送られてきた。これまた驚き、恐縮した。
 そんなアルバイトだから、都合のよいことに仕事がそのまま受験勉強になり、一年後、入学金もたまって早大文学部に改めてはいりなおした。

◆刺激的だった大阪の町とひと
 一年余をすごした大都市・大阪の街は田舎出のわたしにとっては、刺激的な未知の世界だった。
アパートから越してきた下宿では驚くことばかりだった。ここから昼は教科書会社に通い、夕方からは家庭教師をふたつこなしていた。
 下宿は阿倍野区の帝塚山、帝塚山といえば大阪では名だたる高級住宅地、高い塀の上に泥棒よけのガラスの破片や鉄条網を張りめぐらした大きな屋敷が並んでいる。数軒先には南海ホークスの鶴岡一人・監督の住まいがあり、少し歩けばやはり南海ホークスの盗塁王・木塚忠介選手の邸宅があった。
 このお屋敷町は昼も夜もほとんど人通りがない。表門も勝手口もぴたりとしめきられ、時折、高級車が静かに出入りする。
 大邸宅の応接セットのある部屋での家庭教師。終わると、お手伝いさんの部屋らしい四畳半で冷飯の夕食をふるまわれる。「なるほど、なるほど」。これがなにわの富裕層の〝世間〟との付き合いかたなんだ、と妙なところに感心した。
 ところが、わたしの下宿は高い塀をめぐらし、門構えも立派な家だったが、家主だと思っていたのは実は借家人で、なんのことはない二階の三部屋をまた貸ししていたのである。家主? 一家は、ほとんど家にいない親父、内職の針仕事に精出すおばあちゃんとお嫁さん、それに小学生二人という家族構成、こちらはまったくのなにわの庶民派だった。
 また貸し間借り人の三人は一家と台所共用の自炊生活。朝晩の台所はラッシュとなる。夜もバラバラで食事の準備、残り物はお互いに融通し合ったり、家主の漬物桶は間借り人使用勝手たるべし、という按配だった。
 当主は謎の人物で、どんな仕事なのかさっぱりわからない。昼過ぎに起きだすと、ネクタイにスーツを決め込んでどこかへ出かけていく。どこへ行くのか家族もご存じない様子で、ご帰還はいつも午前様である。
 ある夜、こんなことがあった。表で車が停まり、例によって親父殿、ご機嫌の帰館である。何やら下で言い争う声がしたかと思うと、おばあちゃんが階段を駆けあがってノックする。
「すまんけどちょっとタクシー代貸してくれへんやろか」
「ええよ」
「いつもすまんなあ」
 おばあちゃんがその金でタクシー代を払うと、一階の騒ぎはおさまった。
 学生店子が家主にタクシー代を貸す。帝塚山もいろいろ、落語のようなひと幕のようなおもろい一家であった。