第二十五回 いざ、東京へ

三原 浩良

◆横着きわまる新入生
 昭和32年(1957)5月も末ごろになって大阪から東京に向かった。
 早稲田にはいったというものの、入学式もオリエンテーションもすべてパス。講義の選択科目などはすべて友人まかせ。いい加減なことこのうえなし。どうも大阪で〝世間〟にふれてから、わたしの横着ぶりにはいちだんと磨きがかかっていたようだ。
 教室をのぞいてみると、語学の講座などはすでに除籍扱いで名簿から抹消されており、これにはちょっとあわてた。
 大学への幻想はほぼ消えていたから、さして期待もしなかったが、マンモス教室の講義はやはりたいてい退屈だった。
 こっちが退屈なら向こうはもっと退屈らしく、大教室の教壇にウイスキーだかブランデーだかの小瓶を据えて、ちびりちびりやりながら「お前らのようなボンクラ相手に喋るのはたまらんよ。早く新宿に行って一杯やりながら女のケツでも撫でていたいよ」なんて仰天する啖呵をきって、相変わらず退屈な講義で時間を埋める大先生もいた。
 しかし、いくらなんでもあれは本当にウイスキーだったのだろうか。ひょっとしたら冷めた紅茶かなんかではなかったか、今でも不思議に思う。

◆畑のなかの学生下宿
 西武新宿線の井荻駅から徒歩二十分ほどの練馬区の農家に間借りした。駅前はいかにも新開地という風情で商店も数軒だけ、しばらく歩くと家並みもまばらになり、練馬らしい田園風景がひろがっていた。
 下宿は農家が学生用に急造した安普請の離れで、ここに数人が住んでいた。四畳半の部屋の窓をあけると、一面に畑がひろがっている。
 アルミの鍋で飯を炊き、さて惣菜。これがいつもない。マーガリンを乗っけ、溶けだすのを待って、味の素と醤油をぶっかけるのが定番、駅前の肉屋の売れ残りコロッケが唯一のご馳走だった。
 時に味噌汁を作るが、中に入れる具がない。窓をあけると手の届くところから一面の麦畑。ある時、麦の葉っぱをこっそりいただき、具代わりに入れてみた。これには参った。麦の葉には上向きに小さなとげがいっぱいついている。これが喉に引っかかって、飲みこもうにも引っ張りだそうにも頑として動かない。戦時中に里芋の茎、いわゆるズイキの煮つけを食わされて往生したことを思いだした。
 風呂は母屋の家族が終わったあとの貰い風呂である。ときおり大家さんご自慢のはじめてお目にかかる洗濯機を借りて庭で洗濯をした。直径三十センチほどの鋼鉄製の球形のしろもので、パカンと半球を開いて水と衣類に洗剤をぶち込む。蓋を閉めてこの球形をハンドルでぐるぐると回転させ、頃合いを計って蓋を開くと、「ボンッ」とポプコーンが弾けたときのような大きな音がして、終了である。
 遠心力を利用して汚れを衣類から分離させる仕組みのようだったが、後にも先にもこんな洗濯機は見たことがない。どのくらい普及していたのだろうか。電動の洗濯機はまだ普及していなかった。

◆小説と映画に耽溺していた
 大学の講義が退屈だったので、失敬することが多くなり、下宿に寝っ転がって小説を読んだり、映画ばかり見ていた。
 この年の文芸誌に載った新人作品では、菊村到「硫黄島」、大江健三郎「死者の奢り」、開高健「裸の王様」などが強く印象に残っている。いずれも相次いで芥川賞を受賞することになる。
 開高健は、わたしの下宿から一キロばかりのところに住んでいたので、一度会いに行った。後年のあの体躯からは想像できぬ痩身痩躯だった。たしか「新日本文学」に掲載された「パニック」が話題になったころだった。どんな言葉をかわしたのか思いだせない。
 映画では「幕末太陽伝」「喜びも悲しみも幾年月」など、洋画ではイタリア・ネオリアリズムの「道」に強い印象を受けた。貧乏学生の財布ではとても封切館では見られない。おそらく二番館か三番館で見たにちがいないから、翌年のことかもしれない。

 こうして高度成長がはじまる直前の〝なべ底不況〟と呼ばれる不景気のさなかの学生生活がはじまった。