第二十六回 カルチャーショック

三原 浩良

◆なまりに悩む地方出身者
 地方から東京にやってきた学生が、最初に戸惑うのは言葉だ。いきなり〝東京言葉〟を流暢にはしゃべれない。
 いまのようにテレビによって、国じゅうが〝東京言葉〟になってしまった時代ではない。まだ生きいきとした〝お国ことば〟が健在だった。
 耳と口がおぼえてしまった〝お国なまり〟はなかなか抜けないもので、会話にもつい一瞬ひるんでしまう。
 わたしの狭い経験では、断固として自分のそだった土地の言葉で押しとおすのは関西出身者、それに九州、とりわけ熊本の人たち。生まれ育った土地への強い愛着か、それとも同化を容易に自身に許さぬ自負のあらわれか。
 それにひきかえ東北の出身者などは、なまりを抜こうと苦労するが、なかなか抜けない。地方出身者は自分のなまりに小さなコンプレックスを抱きかかえる。
 ちょうど江戸の町を席巻した薩長の侍たちのお国なまりを、江戸の町人が嘲笑したような按配か。
 余談になるが、松本清張『砂の器』は、わが出雲弁と東北弁の音韻の類似をトリックに使った推理小説。山陰と東北にはいわゆる「ズーズー弁」といわれるなまりがある。双方に暮らしたことのあるわたしなどには、違いは歴然としており、聞き違えなどおこりそうにないと思えるのだが、小説の設定だからまあいいとしよう。
 大阪で郷里の友人とお国なまりでしゃべっていたら、「どこの国の言葉や、なんやさっぱりわかれへんで」と嘲われ、懸命に大阪弁をならい覚えようとした。
 東北で半年ばかりすごしたころ、東京の友人と電話で話すと「なんじゃい、お前の言葉は」とあざけられたこともある。もうなかば東北なまりになっていたのだろう。
 東北、九州と仕事で転々としたが、どこでも余り苦労せずに土地の言葉に慣れた。もともとこころざし低く、愛郷心うすいわたしなどは、早く新しい土地の言葉に適応・同化しようとするから〝東京言葉〟にも比較的はやく適応できた。
 だから、言葉で劣等感に悩まされることはなかったが、カルチャーショックとでもいうほかない東京と地方との格差にしばらく悩まされることになった。

◆ラジオで聴くモスクワ芸術座
 その後、長いつき合いとなる同じ国文科の津野海太郎と知り合ったころのことだ。
 彼は文学書もよく読んでいたが、芝居にも詳しかった。ある宵、自宅を訪ねた。そこでうまい夕食にありつこうという魂胆である。
 書棚に文学全集の並ぶ自室で、彼は熱心にラジオに耳を傾けていた。「ちょっとどっかで待っててよ」と言われ、近くのバーでウイスキーをなめ、やがてラジオが終わったころ再び訪ねた。
 何をそんなに熱心に聴いていたのか。そのころ、モスクワ芸術座が東京公演にやってきており、その模様をNHKラジオが中継していた、それを聴いていたのである。
 モスクワ芸術座だから、当然せりふはロシア語だ。「三人姉妹」だったか、「桜の園」だったか。
「エッ! お前、ロシア語もわかるのか」。内心ショックを受けた。が、そんなわけは無かった。訳本を手にして舞台をイメージしながらロシア語のせりふを聴いていたのである。
 チェホフの二、三篇くらいは読んでいたものの、もちろん芝居は観たこともない、観る機会もなかった。これには軽いカルチャーショックを受けた。
 また別のある日、津野の親友だったやはり国文科の草間暉雄の家を数人で訪ねた。少し酒が入ったところで、草間はイタリア民謡の「カタリー」を朗々と歌いだした。なかなかいい。すべてイタリア語だった。これまた「ウーン」と唸った。
 その草間は数編のすぐれた詩と戯曲を残して、卒業まもなく逝ってしまった。
 いずれのエピソードも、田舎育ちにはちょっとしたショックだった。ああ、東京の高校生活とは、かほど自分たちとはかけ離れていたのか! 俺は、俺たちはそんなに遅れていたのか! 大げさに言えば、基礎教養の差に愕然としたものだ。

◆全集が食費に消えた
 入ったのは国文科だが、とりたてて研究目標もない。何となく「文学部」、語学は苦手なので「国文科」。我ながらまことに情けない、いい加減な選択である。
 当時の同窓には後に詩歌、評論、研究や創作の分野で活躍する友人たちがおり、すでに目的、目標を抱いてその基礎となる研鑽を始めていたことを思えば、今さら嘆いてもはじまらぬが、まこと慚愧にたえぬ学生生活のスタートだった。
 そのレールの先にあった卒業論文のテーマには有島武郎を選んだ。最大の理由は、有島には申訳ないが、古書店で「有島全集」が最も安価だったから。値段は忘れてしまったが、貧乏学生でも手に入るほど安かった。
 少々言訳めくが、もちろんそれだけではない。社会主義思想が広がる大正デモクラシーの時代、白樺派にあって大地主という出自からくる罪障意識に苦しみ、そこから新しい創作世界を切り開こうとした作品群に魅かれ、あまりにもその評価の低いことに義憤めいたものを覚えていたのも確かである。
 そんな具合に始まった学生生活だったが、それでも定期刊行が始まったばかりの岩波の「日本古典文学体系」くらいは読んでおかねば、と一応殊勝なこころがけで購入を始めた。全100巻の大冊である。
 しかし、仕送りとアルバイト収入から購入費をひねりだすには高価に過ぎる。そこで親父どのに刊行のたびに送ってもらっていた。
 そこまでは殊勝なのだが、結局はろくに目を通さぬうちに、右から左へ古書店に持ち込み、わが腹中におさまることになったのだがら、情けない。荻窪の古書店が一番高く買ってくれるので、わざわざ電車賃まで使って出かけていった。
 そのうち何かの都合で父が上京することになった。さあ困った。下宿には「古典文学体系」は二、三冊しか残っていない。この背信を白状するのはつらい。今後送ってもらえなくなれば、生活費のあてがひとつ消える。これもつらい。
 思いあまって津野の書庫にならぶ「体系」を一時借りだして、下宿に並べて父を迎えた。いまわが書棚に残るのはわずか20巻ばかりである。

◆〝木曽路〟が受けた軽井沢ショック
 上京後、はじめての夏休み、藤村ゆかりの木曾・馬篭を歩こうと、鈍行列車を乗り継いで木曾路経由で帰省した。
 津野たち東京のグループは、軽井沢の友人の別荘で避暑がてら勉強会を続けるという。
 軽井沢といえば、当時のわたしにすぐに思い浮かんだのは、堀辰雄の『風立ちぬ』のイメージではなく、「ある晴れた日に戦争は来り、ある晴れた日に戦争は去った」と結ばれる加藤周一の小説『ある晴れた日に』だった。
 加藤や中村真一郎らのグループは、軽井沢でひっそりとあの戦争をやりすごし、「やっと終わった」と、ここから戦後の活動をはじめた。その戦中・戦後のありかたに強い印象を受けていたので、津野たちの「軽井沢勉強会」には、軽いショックを受けた。
 軽井沢とは富裕層の別荘の多いところ、そして反戦の思いを秘めて、良心的なインテリたちがひっそりと暮らした高原の町というイメージだった。
 田舎出の貧乏学生にとっては、戦後になっても「軽井沢」は夢幻の世界だった。
 実は津野や草間たちの家もとりたてて裕福なわけではなかった。後日聞けば、たまたま友人の別荘をひと夏借りただけのことだった。
 彼らもほとんどがサラリーマン家庭で、母親たちは趣味をいかして働いていた。
 国文科の四、五人のグループは、互いの父親の給料日、わたしの場合は仕送りの現金書留の到着日を知っていて、毎月互いにアテにしあい、融通しあっていた。それでも窮すれば、わたしは友人のおふくろさんたちに無心を繰り返していた。
 高度成長はまだ先のこと、みんな貧乏だった。

◆「女子大生亡国論」にかみつく
 卒業まじかのころ、西鶴研究の第一人者、国文科の暉峻康隆教授が「婦人公論」に「女子学生世にはばかる」と題し、「私立大学の文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校化している」と難じ、名コンビの慶応大国文科の池田弥三郎教授も「大学女禍論」で歩調をあわせ、私立大の女子学生増加を憂えた。
 これが新聞で「女子大生亡国論」と報じられ、賛否両論にわかれて騒がれた。
 当時の新聞によれば、早大国文科の女子学生は100人中45人、卒業の昭和36年(1961)には55人、翌年65人と増えていた。他大学でも100人中、学習院大89、青山学院大86、成城大78などと急増していた。
 たしかに一時籍をおいた大阪市大の経済学部では、ほとんど女子学生の姿は見かけなかった。
 卒業コンパの席で暉峻教授ととなりあって座る機会があった。講義を受けたことはなかったが、名物教授の顔くらいは知っていた。酒の勢いもあって教授にかみついた。
「ありゃ何ですか、女子大生亡国論って。ひどい話だ」
 わたしには、権威ときくとついわけもなくかみつきたく悪癖があるようだ。
 フェミニストでも何でもないのだが、女子学生の友人にはしょっちゅう金を借りている。うちのひとりにはフランス語の試験で助けてもらったことさえある。つまりちょいとしたフライング、いやカンニング。
「亡国」どころか、彼女たちはいずれもわたしなどよりはるかに成績もよく、「花嫁修業」なんてとんでもない。卒業後も社会人として働くはずだった。ここはひと声なかるべしとかみついた。
 軽くいなされると思ったら、暉峻センセイ、あの特徴ある目ん玉をぎょろりとむいてのたまわった。
「なにッ、お前だけは絶対に卒業させん!」