第二十七回 「60年安保」のかすり傷

三原 浩良

◆「駄作! 引用だけがいい」
 さて、早稲田の四年間だが、いったいわたしは何をやっていたのだろう、といまにして思う。記憶の底をさらってもさしたることは浮かんでこない。
 下宿を転々とし、寝っ転がって文学書に読みふけり、喫茶店で友人たちと喋りつづけていた。みんな何かを書きたいと思っているようだった。
 竹内大は演劇にうちこむ草間暉雄と詩誌「槐」を出したが、これは3号まで続かなかった。このふたりに津野海太郎をふくむ数人のグループで学内同人誌「青環」を出した。「青環」とは野間宏の『青年の環』にちなんだタイトル。ネーミングが示すように内容も幼いもので、1号でつぶれた。
 そこにわたしも短編小説一編を書いたはずだが、内容はまったく覚えていない。
 竹内大は「駄作! 引用の新聞記事だけがいい」と、酷評した。腹がたったが、いまにして思えば、竹内は見事に言い当てていた。わたしはのちにその記者への道を歩むことになるのだから。
 早稲田の講義にあきたらぬ数人で、法政大の授業にモグリこんだことがあった。当時の法政には古事記研究の西郷信綱氏や気鋭の近世文学研究者の広末保氏らが教壇に立っていた。
 講義がおわったところで、学生運動の活動家たちから署名やカンパを求められ、こりゃまずいや、と適当に言いつくろって逃げだした。
 そんなこんなで結局のところ「学問」の方はさっぱり身につかなかった。
 二、三年先輩にのちの近世文学の泰斗、中野三敏さん(九大名誉教授)がいたはずだ。在学中に面識はなかった。その中野さんも、実はアメリカへの密航をくわだてて失敗、やはり創作をめざし、応募していたらしいが、深沢七郎の出現にショックを受け、創作の道を断念したという〝伝説〟がある。
〝伝説〟の真偽は定かではない。後年、「その作品、まだ匡底に眠っているのでは?」と尋ねると、苦笑するばかりで答えはなかった。
 中野さんはその後、研究者への道を歩み、次々に学問的な成果をあげていく。最近は和本リテラシーの先導役で「近世文書くらい読めなくてどうする」と、いまだに叱られている。
 一年下の島田眞祐君は大学院に進み、いま熊本の島田美術館館長のかたわら小説を書きつづけている。
 が、わたしはいまだに近世文書もろくに読めぬ不肖の国文科卒だ。

◆「安保」強行採決にみんな激怒した
 そして、あの「60年安保」がやってきた。
 東京裁判で「戦犯」とされた岸信介が昭和32年(1957)に総理の椅子に座るや、翌年には「憲法9条廃止のとき」と発言して物議をかもすなど、保守色の強い政策を次つぎにかかげる。保守というより戦前への回帰、反動と受けとめられていた。
 日米安全保障条約の改定は、35年2月から国会審議が始まり、反対デモが連日のように国会をとり囲むことになる。
 米軍基地の撤退を求める平和運動のリーダー、学習院大の清水幾太郎教授は「今こそ国会へ」と雑誌で呼びかけ、各大学の教官たちもあいついで反対集会をひらき、授業放棄を決議するなど、革新団体や労組だけでなく抗議の輪は一般にもひろがっていった。
 大学入学後は政治運動には距離をおくようになっていたが、それでもこの反安保デモには連日参加した。当時の文学部自治会は日共系が主導し、他学部では反日共系がヘゲモニーをにぎり、日共系と反日共系の主導権争いは日ましに強くなっていくようだったが、ノンポリ、ノンセクトのわたしはその日その日で、さまざまなグループのデモの後ろにくっついて出かけた。
「あっちは今日はヤバそうだぜ」「(国会に)突っ込むらしいぞ」などと級友たちと情報交換しながら、どのグループの後尾につくか決めていた。
 そして5月19日、衆議院安保特別委員会は新安保を強行採決、警官隊500名を議場に入れて、座りこむ社会党議員らを排除して本会議を開会、野党や与党の反主流派欠席のまま採決してしまった。
 それまではデモは反米色の強いものだったように思うが、この強行採決で一気に「民主主義」への危機感がひろがり、政権への不信に火がついた。以後、日を追ってデモの輪は大きくなり、連日国会を取り巻くようになる。みんな怒っていた。
 大学の講義はほとんど休講になった。学生はデモに参加するために学校に集まってくる。講義を続けようとする教官は、学生の糾弾にあって休講せざるをえなかった。
 毎日、毎日、運動靴にジャンパーという軽装で登校してはデモにでかけ、機動隊の放水でずぶぬれになって下宿に帰りつく。そんな毎日が続いた。

◆樺美智子、死の衝撃
 そして、6月15日、抗議デモはピークを迎える。
 この日、わたしはクラスメートたちと文学部自治会(日共系)のデモの後尾についていた。全学連主流派(反日共系)はどうやら今日は国会突入するらしい、と聞いていたからだったと思う。
 国会周辺は人、人、人であふれかえっていた。すれ違う演劇関係者のデモに右翼のトラックが突っ込み、クギを打ちつけた棍棒で殴りかかり、大勢の負傷者がでるのを目撃した。
 夜になってますますデモの輪は大きくなり、警察車両の投光機や報道陣のカメラのフラッシュで国会周辺は異様な空気だった。
 どこからともなく国会南門で「学生が殺された」「死者がでた」と伝わってきた。路面に座り込んでいた学生の渦に動揺と不安が走った。
 宣伝カーの上から、全自連(日共系)のリーダーだった一年先輩の野口武彦氏(現神戸大名誉教授)が必死に「行くな! 行くな!」と絶叫する姿が思い出される。
 だが、わたしたち数人は彼らの制止をふりきって「南門にいくぞ!」と呼びかけて走った。次々に学生が走った。
 全学連主流派とともに国会に突入し、機動隊と衝突した東大の女学生(樺美智子)が亡くなったという。かけつけた国会構内には三千とも四千ともいわれた学生がひしめき、投光機の照明に照らされて抗議集会をひらいていた。この日の衝突で200人近い学生が逮捕され、負傷者は千人を超えた。
 国会構外の闇にも人があふれていた。警察車両が倒されて放火され、たえまなくフラッシュが光る。記者らしい腕章をつけた男に「この模様、しっかり書けよ!」などと生意気な声をかけた。
デモは未明までつづき、屈辱とやり場のない怒りをかかえたまま帰路についたが、途中で「ぶっ殺すぞ!」という怒声とともに機動隊に追いかけられ、地下鉄の構内に必死で逃げ込んだ。
 終電はとっくにでたあとで、機動隊の放水でずぶぬれになりながら、やっと新宿まで歩き、屋台で食事にありついたことをおぼえている。
 共産党は「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」(「アカハタ」)と、党派性をむきだしに樺美智子をトロツキストとなじり、ノンポリのわたしを激怒させた。

◆「安保条約を読んだのか!」
 のちに新聞社時代の上司でもあった上西朗夫氏(元毎日新聞社常務)に聞いた話では、東大の級友・加藤紘一氏(のち自民党幹事長、防衛庁長官など歴任)とともにデモに加わっていたが、機動隊に追われて加藤氏の父・省三氏(当時、衆議院議員)の議員会館の部屋に逃げ込んだという。
 そこで省三氏に「君たちは改正安保条約を読んだことがあるのか」と一喝されたそうだ。
 別の資料によれば、「日米安保のどこが悪いんだ。言ってみろ」と問われ、加藤氏は「岸首相のやり方は民主主義じゃない。もっと話し合うべきだ」と口答えしたという(遠藤浩一『消費される権力者』より孫引き)。
 それはわたしもご同様だ。当時、朝日新聞論説主幹だった笠信太郎は「現行安保にくらべて改定案が相当に良くなっていることは申すまでもない」とこの月の「文藝春秋」に寄稿していたそうだが、大半の学生は改定安保条約などろくに読まぬまま、デモに参加していたと思う。
 当時の空気は「反米」から一転、安保条約改定よりも加藤氏の「口答え」のように国会の暴挙から「民主主義」への危機感が行動の情念をささえていたと思う。
 翌々日(17日)の朝刊を見て驚いた。
 朝日新聞一面には新聞七社の「共同宣言」が載っていた。
「六月十五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」
 議会民主主義の危機への抗議デモのはずなのに、新聞はこぞって「デモが議会民主主義を危機に陥れる」と言う。まるであべこべである。
 この日の新聞各社の「宣言」をみて、茅誠司・東大学長は「何故純真な学生がこのように多数直接行動をとるに至ったか、そのよって来るところを十分に理解しなければならない」と声明を出した。
 識者からは「宣言」への批判がわきおこり、デモの群衆は新聞への不信を表明した。この「宣言」づくりを主導した朝日新聞社内にも批判的な声があったという(朝日新聞『新聞と「昭和」』)。

◆デモの渦のなかで
 デモの渦のなかでときおり頭をかすめるのは、郷里のことだった。
 ここ東京では連日数十万のデモが国会をとりまいているが、なべておカミに逆らうこと少ない保守王国といわれ続けてきたわが田舎でもデモが起きているのだろうか。隣りのKさんやYさんもデモをしてるのだろうか、いやそんなはずはあるまい。
 岸首相がうそぶくように「声なき声」はやはり、「声なき」ままだろうか。日ごろから「東京が日本ではない。東京は日本の例外だ」と揚言していたわたしは、そのことが気にかかって仕方なかった。
 いまひとつ気がかりなことがあった。機動隊とぶつかる女子学生が、「税金泥棒!」「イヌ!」と機動隊員をののしり、ときには唾まで吐きかける姿に強い違和感と衝撃を受けていた。
 警視庁機動隊といっても彼らのほとんどは地方出身の青年たちだった。さまざまな事情をかかえながら、ともかく上京して「仕事」として警察官を選び、いまは命じられて「仕事」をこなしているだけなのだ。彼らの姿に、わたしは集団就職で都会に散っていった級友たちの姿を重ねていたように思う。
 そんな彼らにこんな侮蔑的な言葉をなげつけて、どうなるものでもなかろう。ぬくぬくとして大学に進み、デモに明け暮れることのできる境涯と自分をひきくらべたとき、彼らの胸中にうずくやり場のない憤りが学生たちに暴力として向かうのではないか。
 それらの思いをうまく整理できぬまま「安保ハンタイ!」のシュプレヒコールに唱和していた。
この日の機動隊の学生デモへの反撃はすさまじかった。

◆「アカシアの雨にうたれて…」
 抗議デモは、衆議院の強行採決後も連日つづいた。
 17日、右派社会党の元委員長の河上丈太郎(当時社会党顧問)が右翼に刺され、目の前を担架で運ばれていくのを目撃した。
 こうして6月19日午前零時、新安保条約は参議院の議決をへぬまま自然成立した。
 この日、33万人が徹夜で国会を包囲し、むなしく抗議の声をあげて、「60年安保」は終わった。
「すわりこんだ学生たちは動かなかった。……さけび声も歌声もシュプレヒコールもなく……デモ隊は静まりかえっていた」(19日、朝日新聞)
 6月23日、新安保条約が発効、岸首相は退陣を表明、かわって池田勇人が首相となる。
 池田首相はこの年暮れに、所得倍増計画を打ちだし、高度成長のレールをひた走る。全学連は各セクトに四分五裂し、内向きの闘争に転じる。
 学内にはけだるい無力感がただよい、風船がしぼむように、デモに明け暮れた高揚感や緊張はまたたくまにうすれていった。
 この年、巷では「三種の神器」(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)が流行語になり、なぜか不可思議な「ダッコちゃん」なる人形がブームになり、「ありがたや、ありがたや」と繰りかえす「ありがたや節」がはやっていた。
 翌年になると、高度成長の応援歌のような坂本九の「上を向いて歩こう」や植木等の「スーダラ節」が大ヒットする。
 わたしは異様なほどのこの「明るさ」になじめなかった。ぼんやりとした虚脱感のなかで「何かが違う」という強い思いを抱きながら、時間が流れていった。
「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい……」と西田佐知子がけだるそうに歌いだす「アカシアの雨がやむとき」が、学生たちを感傷の海に誘っていた。