第二十八回 続「60年安保」のかすり傷

三原 浩良

◆さまざまの「安保総括」
 1960年秋、キャンパスの銀杏が色づくころ、あの安保反対デモの渦巻きが信じられぬほど学内は静まりかえっていた。学内だけではない。街もなんだか落ち着きはらった風情にみえて妙に明るく、居心地わるさを感じるほどだった。
 論壇では―このころまで論壇、文壇なるものがはっきりと存在していた―「安保闘争」の「総括」がさかんに続いていた。
<年表>によって、時系列にたどってみると、「朝日ジャーナル」の特集に続いて「思想の科学」は緊急特集「市民としての抵抗」を編み、清水幾太郎は「安保戦争の《不幸な主役》」(「中央公論」)を、福田恆存は「常識に還れ」(「新潮」)と訴え、江藤淳は「《戦後》知識人の破産」(「文藝春秋」)を指摘し、谷川雁、吉本隆明らは「民主主義の神話―安保闘争の思想的総括」を、日高六郎編「1960年5月19日」などが相次いで発表されている。
 知識人たちはそれぞれのよって立つ場所から、それぞれの闘い(あるいは不闘)を「総括」し、批判、反批判をくりかえし、なかには大きくその立場を変える人もいた。
 このうち何編かは読んだはずだが、いま記憶に残る論考はない。数十年たって読んだものもあるが、色あせてとてもわが胸に響いてはこなかった。
 学生運動は日共系、反日共系を軸に全学連のヘゲモニー争いがつづき、やがて反日共系は各セクトに分裂し、70年代の全共闘運動へとなだれ込んでいく。
〝政治の季節〟は、政治不信の季節へとうつりかわり、ノンポリ、ノンセクトの学生たちは、内向きになってゆく。わたしもそのひとりだったと思う。

◆「裸の島」と「筑豊の子どもたち」の衝撃
 文芸の世界に目を転じると、この年、学生だった倉橋由美子が「パルタイ」で登場、三浦哲郎は「忍ぶ川」で鮮烈なデビューを果たしている。まったく傾向の異なるこの二作品はいずれも記憶にあざやかに残っている。
 映画では、「豚と軍艦」(今村昌平)、「黒い画集」(堀川弘通)、「おとうと」(市川崑)などの邦画の話題作はほとんど観ていた。洋画も同様で「勝手にしやがれ」(仏)、「太陽がいっぱい」(仏)、「甘い生活」(伊)などが印象に残っている。
 こうしてみると、当時のわたしは政治よりも文芸作品や映画の磁力により強く引き寄せられていたことがわかる。
 だが、この年もっとも鮮烈な印象を受けたのは、土門拳の写真集『筑豊の子どもたち』と新藤兼人監督の映画「裸の島」だった。
 前者は筑豊の炭住の子供たちにフォーカスしたモノクロ写真集。ザラ紙に叩きつけるように印刷された定価百円の廉価版。この年夏に出たばかりの上野英進『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)とあわせ読んでしたたかに衝撃された。
 後者は瀬戸内の小島で農に生きる夫婦の姿を描いたモノクロの小品。電気、ガス、水道のない島は隣りの島から小船で水を汲み、天秤棒で小高い丘の畑まで運ぶ。乙羽信子、殿山泰司の夫婦は、きのうも今日も無表情のままひたすら水を運びつづける。せりふのひとつもないモノトーンの不思議な作品だった。
 両作品とも徹底したリアリズム作品で、言葉をうしなうほどの衝撃を受けた。深読みすれば、「安保(闘争)批判」とも読めなくもないが、それは制作時期から考えてありえない。わたしの勝手な思い入れに過ぎない。
 国会をとりまくデモの波のなかでも感じていたあの違和と同根の、東京にありながら<地方>にこだわり続けるわたしの性癖のなせるわざであったろう。

◆浅沼刺殺テロの日の面接
 秋は就職の季節でもあった。
 就職など深く考えもせず、のんべんだらりと過ごしてきたわたしも、さすがに大学を転学したうえに、これ以上親の脛をかじるわけにはいくまいと思いはじめる。
 しかし、周囲の友人たちはいっこうに就職などには関心もなさそうである。大学院に進むか、留年するか、あるいは文芸や演劇など好きな道に進むか。あわてているヤツはいなかった。
 文学部の学生の就職先といえば、マスコミ関連か教職か。一般企業からの求職などほとんどない。
 新聞か出版かテレビか、と思い悩む。いずれも狭き門だ。当時はマスコミ大手は協定を結んでいたのかどうか、試験日がほとんど十月一日に足並みをそろえており、ふたまた受験はできない。
 さて迷った。新聞はこれまで実家でも下宿でも「朝日新聞」を定期購読していたのに、なぜか「毎日新聞」を受験することに決めた。
 筆記試験は何とかクリアして、いざ面接試験となった。この日、十月十二日のことはよく覚えている。
 有楽町のかなり老朽化した社屋の編集局が見わたせる部屋でご同輩たちと待機していた。すると、「浅沼が刺された!」と誰かが叫ぶのが聞こえた。編集局員たちが「オーッ」とか「エーッ」と声をあげて総立ちになるのが見えた。
 浅沼とは当時の社会党委員長・浅沼稲次郎のことである。すぐ近くの日比谷公会堂で行われていた三党首立会演説会で右翼少年・山口二矢に刺されて浅沼は絶命する。
 その直後に面接試験がはじまった。当方の心情もいささか穏やかではなかったろう。
「君は6月15日はどこにいたのかね?」
いきなり面接官はこう問うた。言うまでもなく「6月15日」とは東大生・樺美智子がデモの渦中で亡くなった、あの日である。
「どことは? 物理的な場所を指すのですか、それとも思想的な場所を指すのですか?」
 これではまるで喧嘩腰である。面接官も憤然とした様子で重ねてたたみかけてくる。
「両方だよ」
「物理的には国会からやや離れた場所に坐っていました。思想的には安保反対です」
 正確ではないかもしれないが、ほぼこんなやりとりがあって面接は短時間で終わった。
 結果、不合格である。「よもや」とは思わなかった。だが、この面接で落ちたとは思いたくない。筆記試験の成績が下位だったのだろうと考えることにした。
 文学部自治会の委員長だか書記長だかをやっていた友人は「ウチは右翼と共産党はいらないよ」といきなり告げられたと言う。文学部自治会は共産党系が支配していた。調査済みだったのだろう。
 当時はまだ受験者の身辺調査と称して、下宿にも新聞社の調査員が訪ねてくる時代であった。
「デモなんかには行った様子はなかったですよ」と下宿のおばちゃんは気を利かして答えてくれたそうだが、これでは台無しである。
 だが、不合格にショックは受けなかった。とりあえずどこでもいいや、どっか拾ってくれるところもあるだろう。十年で三つの仕事を経験してみたい。そんな暢気なことを考えていたのだから。
 ところが以後の一年間に三回も仕事を変わることになろうとは、さすがに思い及ばなかった。