第二十九回 10年に3回転職のはずが……

三原 浩良

◆「社旗をつけた外車」?
 新聞社の入社試験に落ちて、さてどうするか思案していたら、友人を介して窪田章一郎教授から神田の小さな出版社を紹介された。
 高校時代から英語のテキストで親しんできた南雲堂の国文セクション、桜楓社(のち独立、いまは国文関係専門書出版の「おうふう」)。はじめて聞く出版社名だった。
 教授からは「朝日新聞でも社旗をつけた外車に乗れる記者とそうでない記者がある。小さな出版社だが、君の場合はその社旗のほうだから」と言われた。
 社旗も外車もなんのことだかわからなかったが、とりあえずはそこに身を寄せることにした。
 南雲堂と同じフロアの片隅にある桜楓社は、創業まもない出版社らしく、及川篤二編集長と女性編集者のふたり所帯、そこに一気に新卒三人を採用して仕事の拡大をはかろうというもくろみのようだった。
 入社早々、及川編集長からさっそくハードな仕事を次々と命じられた。進行中の短歌シリーズ「土屋文明」の編集、同時に雑誌「近代短歌」の創刊といきなり目のまわりそうな忙しさのなかに放り込まれた。
 単行本の方は大阪時代の編集経験をたよりに何とかついていけそうだが、雑誌の創刊を新入りひとりに丸投げするなんて無茶もいいとこ。短歌の世界などさっぱり不案内なのににひとりでやれ、という。企画から原稿依頼、編集、最後にはできあがった創刊号を取次(本の問屋)までかつぎこんだ。
 しかし、おかげで宮柊二、近藤芳美という戦後短歌界をリードしてきた歌人に親しくしてもらい、いろいろ教えてもらうことができたのは望外のうれしいことだった。
 この無謀な〝丸投げ〟にみられるように及川編集長は豪胆な「決断の人」だった。その豪腕でその後、桜楓社を著名な国文関係出版社に育てあげていった。
 その意気に感じて、わたしも頑張った、頑張った。昼間のデスクワークが終わるころになると、知り合ったばかりのセンセイから「夜のお誘い」がくる。及川氏に言われるままに渋谷の待合から銀座のクラブというのがお決まりのコース。接待が終われば、お尻のピンとはねあがった外車タクシーでセンセイをお送りする。
「ははーん、外車とはこのことだったか」と皮肉な思いで、深夜まで働く毎日だった。
 こんなことまでバラしていいものか迷うが、社名の「桜楓」は日大の桜、国学院の楓、両校の校章からとったもので、両校の国文テキストの売上げが経営を支えていたようだ。
 こんな不思議なこともあった。
 編集長に同行して某教授宅を訪ねた。編集長は「夏休みのご旅行にでも」と「寸志」の包みを差し出し、翌年の教養課程で使うテキストを序文だけ書き替えての値上げを頼み、了承された。マンモス大学のテキストだからたとえ十円、二十円の値上げでも売上げ増に大いに寄与する。なるほどそんな仕掛けがあるのか、と割りきれぬ思いの一方で 零細出版社経営の厳しさも思い知らされた。
 
◆「交際費使い過ぎる」と二ヶ月で解雇
 みんな毎晩遅くまで働いた。及川氏の意気に感じているわたしはいいようなものだが、夜遅く遠隔地の著者の自宅まで女性編集者を原稿とりに行かせるのはいかがなものか、と疑問に思いはじめた。
 こんな労働条件がまかりとおっているのは労働組合がないからではないのか。親しくなった南雲堂の編集者のNさんと気脈を通じて労組結成を画策した。
 さっそくご注進に及んだものがいたらしく、これが南雲堂経営者の逆鱗にふれた。入社二ヶ月後にいきなり「解雇」を通告された。理由は「経費を使いすぎる」こと。しかし、銀座のクラブなどポット出の新卒が知るはずがない。いずれも編集長の指示のもとにやっていること。だからこれは表向きの理由、労組づくりの画策が警戒されたに違いない。
 そうか、まあ仕方ないやと思ったのだが、先任の女性編集者と同期入社の女性編集者までが「解雇は不当だ」と辞表をだしてしまった。これには困った。騒ぎのタネをまいたのは自分だから仕方ないとしても、巻き添えにした二人には申訳ない。臆面もなく3人の退職金を要求した。
 が、会社は「お前には出すが、他のふたりは自主退社だから出せない」と突っぱねた。 結局、わたしに出されたわずかの退職金というか手切れ金を手に、その足で三人で後楽園に行き、ジェットコースターに乗って憂さをはらし、ビールで乾杯して別れた。
 この間、及川編集長はひとことも口をはさまず沈黙をまもっていた。独立前の南雲堂傘下の一セクションだからやむをえなかったのだろう。
 好感を持っていた編集長だっただけに申訳ない思いで去った。こうして二度目の出版社勤めは、わずか二ヶ月であっけなく終わった。
 わたしにつきあって辞めたふたりは間もなく、別の出版社や図書館に再就職が決まり、胸をなでおろした。

◆三つ目の出版社勤務
 捨てる神あれば拾う神ありではないが、桜楓社を紹介してくれた同じ友人を介して今度は「アルバイトでよければこないか」と小学館からお呼びがかかった。
 それまで平凡社の独占だった「百科事典」の世界に小学館が乗り出すのでスタッフを求めているという。渡りに舟と誘いに応じた。
 こちらは大手だからスタッフも数十人で編集長は篠弘さん。篠さんは国文科の先輩でもあったが、先の窪田教授主宰の歌誌「まひる野」の同人でもあった(いまは現代歌人協会会長)。
 おそらくは窪田教授からの紹介もあってのことだろうと察しはついたが、教授の顔をつぶしたわたしはその詫びにも出向かぬ罰当りであった。
 編集スタッフには、五年後には北里大教授(『死の風景』でサントリー学芸賞受賞など著書多数)となる立川昭二さんなど多士済々、なかなかに楽しかった。
 わたしはなぜか「あ」「愛」「藍」にはじまる「あ行」の担当。といってもすでに出来あがっている原稿の校正、資料との照合、リライトなどである。
 ここでも先輩たちによくしてもらった。とりわけ詩人のFさんやMさん、Kさんなどにお世話になった。
 そのうち篠編集長に「社員登用試験を受けないか」とすすめられるままに中途採用試験を受けて、合格した。
 しかし、と迷い悩んだ。
 当時の大手出版社はどこでもそうだったようだが、雇用形態がじつにずさん。小学館はアルバイトから正社員までには四つか五つの身分の職階があり、高卒はどこまで行っても準社員で社員にはなれない。
 よくしてもらったKさんは準社員だった。わたしがこのまま社員になれば、Kさんの身分を追い越してしまう。それでは居心地がわるい。
 思い悩んでいるところに不合格になった毎日新聞社から「通信員をやってみないか」と誘いがきた。通信員とは地方勤務の契約社員のようなもの。
 そうか、それもありか、とまたもや転身を決めた。
 昭和36年(1961)11月、小学館にはちょうど半年お世話になったことになる。
 当時の出版社は雇用形態も身分格差も旧態依然たるもので、やがて後には光文社や三一書房などで労働争議が起こる。
 かくして向こう十年に三度は仕事を変わろうと思っていた思惑はおおきくはずれ、一年に三度も仕事をかわるはめになってしまった。
 そのつど、教授や先輩、友人の配慮にことごとく背信してきたわがままな自分を、いまさらながらに恥じ入るばかりである。