第三十回 駆け出し記者、福島へ

三原 浩良

◆くるくる変わった初任地
 昭和36年(1961)12月、東北本線の福島駅に降りたった。
 上野から北に向かう列車に乗るのははじめて、着いたのは夜の八時過ぎだった。駅からの道の両側には除雪された雪がうずたかく積まれ、「おお、さすが北国だ」とコートの襟をたてながら道を尋ね、やっと毎日新聞福島支局にたどりついた。
 支局は石の立派な門構えのあるお屋敷ふうの木造二階建て。だがどうみても老朽化がはげしいそう。瀟洒な近代建築を予想していたので、少なからず驚いた。
「おッ、来たか。待ってたよ」
 がらんとした支局で、ひとり板張りの床の達磨ストーブに手をかざしていたデスクの菅野正二さんが迎えてくれた。
デスクに連れられて近くの酒場につくと、支局員がそろって歓迎会をひらいてくれた。いやいつもの酒盛りだったのだろうが。
「しばらくは福島で仕事を覚えてくれ」と、戦時中は上海支局員だったという佐野正元支局長から告げられた。
 びっくりしたのは十ヶ月前の面接試験で顔をあわせたM君がいたこと。「アレレッ」と互いに顔を見合わせた。が、向こうは正社員、こちらは契約社員のようなもの、ちょっぴり胸がいたむ。
 こうして福島で駆け出し記者の見習い訓練がはじまった。

 赴任に先立つ一週間ほどまえ、有楽町の本社地方部に出向くと、「君の任地は三浦だ」と部長サンに告げられた。そうか三浦(神奈川県)なら東京にも近い、海もある。冬もあったかそうでいいや。
 わずかの荷物をまとめて翌日挨拶に行くと、「いや、変わった。春日部に行ってもらう」。「エッ、春日部ってどこですか」と頓馬なことを聞くと、「埼玉県だ。浅草から電車ですぐだよ」。
 さらに翌日、今度は「浪江にかわった」。エエーッ!「浪江って何県ですか?」「福島、常磐線だよ。が、とりあえず福島支局に行ってくれ」
 どんな事情があったのか知らないが、初任地の二転三転には驚いた。知らない土地ならどこでもいいやと思っていたから、いいようなものだが、新聞社の人事ってこんなにいい加減なの? こうして着いたのが、雪の福島だった。

◆アナログ時代の通信手段
 赴任18日目にいきなり大事件に遭遇した。
 この日、裏磐梯の檜原湖で伝馬船が転覆、6人が師走の湖にのまれる惨事となった。
 さあ、出動。ガレージには立派なランクル(ランドクルーザー)がいつも鎮座していたが、動くのを見たことがない。これまたどんな事情かしらないが、ドライバーがいない。運転免許を持つものもいない。あわててトヨタの整備工に郡山までころがしてもらい、そこで免許を持つ記者に交代して現場に向かう。
 雪道を難渋してやっと現場に着いたのは深夜、暗闇のなかを先輩記者たちは手探りの取材をはじめる。しかし、どうやって原稿を送るか。現場は山あいの僻地、無線は通じない。村内に電話は数えるほどしかない。
 湖畔の船着場前の家に駆け込むと、「毎日サンかい、さっきから何度も電話がはいってるよ」と言う。支局に残ったベテラン記者が、現場周辺に片っ端から電話を入れ、もっとも便利そうなところに電話を確保していたのだ。
 当時、ダイヤル電話はまだ市街地だけ。ほとんどが手回しの手動式だから、いちいち交換手を通して申し込む。数少ない電話に各社殺到すれば混み合ってなかなかつながらぬ。ところが、「予約電話」という制度があって、あらかじめ番号を指定して通話時間を予約できる。かなり高額だが最優先でつないでくれる。支局のベテランはこの制度をつかっていちはやく「予約」を入れてくれていたわけ。
 さて、原稿はなんとか送れるようになったが、写真が送れない。当時の電送機はどでかい固定型で、とても運べたものじゃない。結局、駆け出しのわたしが一番列車に乗ってフィルムを持ち帰ることになった。
 パソコンも携帯電話もデジカメもないアナログ時代の記者たちは、記事や写真の送稿にえらい苦労をした。出張取材はまず通信手段の確保からはじまる。有楽町の本社屋上にはまだ伝書鳩の鳩小屋があった時代である。
 しかし、この経験は数年後に生きることになった。熊本・天草の離島で修学旅行生を乗せた船が遭難したおり、今度は留守役にまわったわたしは、島の小学校にくだんの「予約電話」を入れ、現場にとんだ記者の送稿手段を確保した。この電話に各社が殺到したが、当方に優先権がある。その電話からあわてもののNHKの記者が毎日新聞に原稿を吹き込んでしまう珍事も起きた。
 さらにさかのぼれば、戦前、長崎が大水害で通信途絶したとき、長崎―上海―東京と迂回して電報をつないで特ダネ原稿を送った記者がいたという。ベラボウな電報料金の支払いに困った〝伝説の記者〟は、のちに毎日新聞の社長になった。
 デジタル時代の記者たちには想像もできぬ苦労が、たった五十年前には当たり前だったのである。

◆あの「浪江」に行く
 駆け出し時代の失敗あれこれは、以前書いた『地方記者』(葦書房)にくわしく紹介したので、端折って先に進む。
 福島での教育期間が終ろうとする翌年5月の連休だった。当時の新聞休刊日は元日、こどもの日、秋分の日と一年に三度。元日を除く他の二日は「全舷」と称して県内のあちこちに散っている記者がそろって宴席をかこむならい。「全舷」とは海軍の俗語で艦船の乗組員全員が上陸することが語源と聞いた。
 土湯だったか高湯だったか、福島の温泉場での酒宴が盛りあがっているところへ、学生時代からの親友、竹内大から電話がはいった。
「おい、草間が亡くなった」
 草間は津野や竹内とおなじ大学のクラスメート、なんだかだといつもいっしょに行動していた。草間は学生時代から芝居に打ち込み、すでに戯曲を書き、演出も手がけ、若手演劇人として期待されていたのだが、腎臓を患い、闘病を続けていた。
 ヒトの脳というやつは得体のしれぬところがあり、草間の死を伝えたあとに竹内がはなったひとことが記憶にしみついて離れない。
「なんじゃあ、お前の言葉は。どこのことばじゃ」
 赴任五ヵ月でわたしは土地の言葉にすっかりなじんでいたらしい。それを感じとった竹内は、親友・草間の死への憤りからか、そう言ってなじった。環境に影響をうけやすいのか、それとも根無し草のせいなのか、その後も任地がかわるたびにわたしは土地の言葉にすぐになじんだ。
 数日後、ころあいよしと判断したのだろう、佐野支局長から「君の任地の浪江に行ってくれ」と告げられた。「常磐線だよ」と言われた、あの「浪江」である。
 福島・浜通りのこの小さな町は、東日本大震災の大津波と原発事故で二重に被災し、いまではだれでもその名を知っている。