第三十一回 石炭と原発、福島・浜通りの一年

三原 浩良

◆任地は浪江のはずだったが
 昭和37年(1962)5月、辞令の勤務地は「浪江」とあったが、福島・浜通りの中心地、平市(現いわき市)を拠点に働くよう指示された。
 福島県は宮城、山形、新潟、栃木、茨城と県境を接し、県域が広い。雪深い会津地方、福島や郡山のある中通り、太平洋岸に沿った浜通りの三つに大別され、中通りの南端には白河の関、浜通りの南端には勿来の関がある、みちのくの入口である。県内には取材拠点が十一もあった。
 旧藩時代は水戸、伊達、会津の大藩のほかに小藩も多く、気候、風土、言葉もちがい、それぞれ独自の歴史を刻んできた土地柄だから、県民の一体感にはややうすいところがあった。
 浜通りには常磐線にそって北から原町市(現・南相馬市)、平市、磐城市(現いわき市)の三市に取材拠点の通信部がおかれ、浪江は原町と平の中間にあたる。
 浜通りは黒潮洗う太平洋岸沿いだから気候も温暖、雪は降ってもまず積らない。冬になると、浜通りは晴れでも、西の山に雲がかかっていれば「福島は今日は雪だっぺ」というくらい気候もちがう。
 平通信部主任の風張幸夫さんの指示で、わたしの持場は平市と磐城市のあいだにある常磐市と内郷市、それに石城郡の町村、ときおり北の双葉郡の浪江町などの町村にも行くようきめられた。平、内郷、常磐、磐城、勿来の五市はのちに合併していわき市となる。
 ここで一年足らず勤務した。そのあいだ、大事件や災害もなく、内郷、常磐の両市を中心に毎日バイクで巡回取材した。

◆「フラガール」以前の町
 常磐炭田は北海道、北部九州とならぶ教科書にものる三大産炭地だった。
「常磐」とは常陸の「常」と磐城の「磐」からとった合成地名、茨城北部から福島・浜通り南部にかけて四十余の大小の炭鉱がひしめいていた。その代表格が常磐市に坑口のある常磐炭鉱である。
 社会人野球の常磐炭鉱は、都市対抗野球の常連チームで、後楽園球場には毎年のように「常磐炭鉱節」が流れた。専用球場ではいつも選手たちが練習に声をからし、スタンドには坑内からあがったばかりの炭鉱マンの姿があった。
 しかし、町では合理化や閉山のうわさでもちきりだった。
 安い石油におされる石炭不況は深刻で、最優良鉱のはずの三井三池炭鉱では大量解雇をめぐって二年前には大争議が起き、新聞に踊る「エネルギー革命」の見出しが、炭鉱マンたちを不安にしていた。
 昭和37年(1962)年5月に発足した政府の石炭鉱業調査団が、7月末には常磐炭田の調査にやってきた。調査をおえた調査団の有沢広巳団長らの記者会見が、常磐市役所であった。有沢団長は当時、法政大の総長ではなかったろうか。河合栄治郎門下の著名な経済学者としてその名は知っていた。
 記者会見の模様は書いたと思うが、内容はほとんど記憶にない。その年秋には、効率のよくない炭鉱を閉山し、効率のよい炭鉱だけを残す「スクラップ・アンド・ビルド」の方針が答申され、炭労傘下の組合では抗議ストが続発する。
 しかし、常磐炭鉱労組は炭労傘下ではなく、民社党系の全炭鉱労組に属し、24時間ストが一回あったくらいで大争議は起きなかった。民社党の西尾末広委員長が坑内の視察におとずれ、同行取材ではじめて坑内にはいることができた。
 常磐市は大合理化と閉山にそなえ、町の振興策の検討をはじめていた。
 常磐炭鉱の坑内には大量の高温水が噴きだす。そのせいで発生する独特の坑内病や効率の悪さが悩みのタネだった。ごく一部が温泉旅館で活用されていたが、大半の温水は川に流され、冬の朝などは川からもうもうと湯煙がたちのぼっていた。
 この豊富な温水を活用する振興策として、ハワイアン・センターや競走馬の保養施設構想が浮上していた。炭鉱の所長からこの構想を聞いたときには、記事にはしたものの半信半疑だった。
 しかし、やがてこれらの構想は実現する。のちに映画「フラガール」で有名になったハワイアン・センター(現スパリゾート・ハワイアン)などが雇用の受け皿となり、全国の産炭地のなかでも〝奇跡の再生〟と呼ばれることになる。

◆原発推進派・石炭調査団長の皮肉
 実はこの時期、炭鉱合理化と表裏セットになって、北の双葉郡や南の北茨城では原発の立地計画が進んでいた。
 安保反対デモと三池争議に揺れた昭和35年(1960)、福島県は浜通りに原発用地を提供すると東京電力に表明、東電はそのとりまとめを県に依頼する。これを受けて翌年、大熊、双葉の両町議会は原発誘致を決議、誘致運動に乗りだしていた。
 しかし、月に一、二度程度訪れる浪江町などで原発に期待する声を聞いた記憶はない。いまにして思えば、石炭から石油、原子力へとこの国のエネルギー政策が大きく舵をきったときだったのだが、この新米記者はそんな動きに敏感に反応する洞察力も関心もなかった。
 以降の動きを年表風に記せば─

  昭和42年(1967)福島第一原発一号機着工
  昭和43年(1968)双葉郡富岡、楢葉両町が福島第二原発誘致を決議
  昭和46年(1971)福島第一原発一号機営業運転開始

 奇しくも一号機の営業運転開始の年に常磐炭鉱は閉山を決断、五年後に閉山する。わたしが任地をはなれて十数年後のことである。昭和48年のオイルショックにより原発建設はいっそう加速される。
 さらに十年後、あの石炭鉱業調査団長の有沢広巳氏は原子力委員会委員長代理、原子力産業会議会長となって原子力政策推進の旗振り役となっていく。
 有沢氏は原子力産業大会で、原発の「安全確保に役立っていない過重な付属設備は除去すべきである」とし、その例として軽水炉の緊急炉心冷却装置をあげ、その設計が「オーバー・デザイン」ではないか、「配管の瞬時破断は実際には起こりえない」などと述べている(1986年4月8日「朝日新聞」夕刊)。
 高名な経済学者はこの発言の二年後に亡くなり、福島第一原発のメルトダウンを知ることはなかった。なんとも楽観的な発言を裏切る歴史の皮肉。被災者にとっては皮肉ではすまされない四半世紀後の〝予見のメルトダウン〟であった。