第三十二回 二度目の入社試験

三原 浩良

◆「君は革命側か、記者側か」
 昭和37年(1962)秋、「もう一度受け直したら」と上司や先輩にすすめられ、ふたたび入社試験を受けることにした。
「地方通信員」から正社員へ。いまの契約社員たちが「正社員」をめざすのと同じ。なんだか小学館のときと似たようなことになったなあ、と思いながら東京に向かう。
「昭和史」研究者の保阪正康氏の自伝(『風来記―わが昭和史(1)』)をめくっていたら、偶然にもこの年の毎日新聞社と思われる入社試験の模様がくわしく記されていて驚いた。
 わたしは東京本社で受験したが、同志社大出身の保阪氏は大阪本社で受験したようだ。その面接試験の模様―。
「君は支持政党は民社党と書いているが、これは本当か」と面接委員に聞かれた。
 保阪氏は、ためらいもなく「いえ、本当は社会党です」と答えたところ、「社会党といっても右派と左派があるが」と問われ、「どちらかといえば左派です」と答えた。
「すると君は、もし暴力革命が起こったら、新聞記者のままでいるのか、革命家の側に転じるのか、どちらだね」とさらにたたみかけられた。
 学生時代にはブント(共産主義者同盟)のシンパだったという保阪氏は、「内心しまったと思った」が、思わず「革命家の側に入ります」と答えてしまい、三人の面接委員は苦笑したという。
驚いた。まるで前年のわたしの面接のケースに酷似しているではないか。そうか、まだ「六〇年安保」の余韻で、新聞社も学生運動に神経質になっていたんだ、とわかる。
それにしても、「君は革命家側に立つのか、それとも記者の側か」と突っこむ面接試験、思想・信条の自由もあらばこそ。だが、当時は受験生の支持政党や思想・信条を尋ねる「思想調査」もあたりまえ、のちに禁じられる「身上調査」も普通に行われていた。
 保阪氏は不合格になったが、おそらく成績がよかったのだろう。新聞社の人事部から「二年ほど地方で仮採用の形で記者修行をしては」とすすめられたという。「仮採用での記者修行」、つまりわたしがこれまでやってきた「地方通信員」を指しているのであろう。
 が、保阪氏はこれを辞退して、フリーライターの道を選ぶ。
 わたしの二年目の面接試験は、前の年とちがって政治的な立場を問うような厳しい質問はなかった。

◆「晴れて正社員」の意味
 やがて合格通知をもらい、「晴れて正社員」として入社することになった。研修地は大阪本社、そして赴任地は思いもよらぬ西部本社、九州だった。
 実はわたしは、福島で知り合った女性と平市で新婚生活をはじめたばかりであった。
「結婚しました」とはがき一枚で実家に知らせたところ、驚いて駆けつけた両親から「せめて式をあげよ。無理なら記念写真だけでも」と懇願されたが、これを頑なに断わり「ならばいっしょに旅行しよう」と会津・東山温泉に一泊旅行をした。両親同伴の新婚旅行である。
列島を縦断して一挙に南下、かねがねどこだっていいや、と思っていたから「そうかい、そうかい」と九州に向かった。しかし、福島出身のかみさんは心底がっかりし、みるみる郷里が遠くなっていくのに呆然としていた。
「晴れて正社員」などと時代がかった表現をしたが、実は「地方通信員」は正規入社の記者にくらべると、身分も不安定なら給与もおさえられていた。そればかりか正社員から軽んじられて不快な思いをすることも多く、なかには露骨な差別をする「正社員」もいた。
 新聞社にもさきに書いた出版業界同様、まださまざまな身分制度が生きており、「通信員」のほかに「特別勤務員」、アルバイトの夜間高校生は「坊や」と呼ばれていた。さらに「雇員」「赤伝」などの呼称も残り、身分制が幾重にも重層していたのは、これも出版業界とご同様。
「そうか、君は〝見習い生〟か」。西部本社に赴任すると、いきなり先輩からそう呼ばれた。単に「研修生」の意味だと思ったら、これが大卒・正規入社の記者の呼称だと知って、また驚く。時代の先端自負(?)する新聞社も、ひと皮むけば、前時代的な古いものを残していたのである。
 わたしはわずか一年で通信員身分から〝脱出〟できたが、なかには十年以上も甘んじてきた人も多く、後年、労働組合を通じてその撤廃運動に力を入れた。
 当時の全国紙はどこも似たような制度をもっていたが、毎日新聞もやがてこの制度に「弊あり」として地方通信員全員を正社員化し、制度も全廃されることになる。

 大学卒業時には、この先十年で三回くらい仕事をかえようなどと、のんきなことを考えていたのだが、なんのことはない一年で三回も転職してしまった。