第三十六回 政治が蒔いた〝土建暴力〟のタネ

三原 浩良

◆尾行がついていた!
「夕べ、○○で呑んでたでしょう」
 昭和40年(1965)秋だったと記憶する。地元の熊本日日新聞の警察担当記者がニヤニヤしながら料理屋の名をあげてわたしをひやかした。
 たしかに前夜、その料理屋で呑んだ。しかし、なぜ翌朝はやばやと彼が知っているのか。問いただすと警察情報だと言う。不快だった。
「坂口さんと一杯やりませんか」と市議会新政クラブの木下富雄、大塚栄一両議員に誘われて出かけた。坂口主税氏は、わたしの赴任前の激しい知事選挙で現職の寺本広作知事に敗れた前熊本市長。市長時代、新政クラブは市長を支える与党という関係だった。
初対面の坂口氏は、終始笑顔で言葉少なに杯を干していたが、政治向きの特段の話はなく、熊本名物の馬刺しをつつきながら、大杯を回し呑みしたり、大塚議員が興に乗って黒田節をひとさし舞った。
そんなたわいない酒席が警察に筒抜けになっていることに驚き、不気味でもあった。
与野党伯仲する市議会で新政クラブはキャスティング・ボートを握っていた。このため市側の重要な情報がもたらされる。おかげでささやかなトクダネをゲットできたこともあった。そんな事情もあって、わたしは木下議員や大塚議員とはよくつきあい、酒席をともにすることも多かった。
同じ会派のK議員とも何度か呑んだ。彼も県警は組長と認定していた。そんな彼と夕暮れの街を歩くと、街がちがって見えることがあった。暗がりの客引きたちが、彼に気づくと低頭して挨拶する。
「おう、いつ出てきたとかい」(いつ出所したのか)と、彼は若い衆に声をかけていた。そんな場面にでくわすと、「はは~ん、なるほど」と思わないでもなかったが、こわいと思ったことはなかった。
 組長であろうと元組長であろうと、取材すべきは取材すべし、と割りきっていた。そんなわたしの行動までが、警察にマークされていたとは驚きだった。県警は大がかりな内偵捜査に着手していたことがやがてわかる。

◆高度成長のあだ花たち
 熊本市議会や県議会になぜ暴力団につながりのある土建業者が議席をえるようになったのか。
昭和28年(1953)、熊本市は未曾有の大洪水に見舞われる。市街に大量に流れ込んだ火山灰土排除のため、雨後にタケノコが一斉に芽をだすように中小の建設会社が続々と誕生した。「ダンプ一台で開業できる」と暴力団系も次々参入してきたという。
 十年後、ときは高度成長のまっただなか、公共事業の大盤ぶるまいに業界は活況を呈した。熊本にかぎってみても九州横断道路(昭和39年開通)、新県庁舎(同40年着工)、鹿児島本線電化(40年熊本まで完成)、天草五橋(同41年開通)とビッグ・プロジェクトがきびすを接し、さらに有明海沖の工業用地埋立て、新空港建設と切れ目なくつづく。
熊本市でもインフラ整備の建設ラッシュである。新たな工事が計画されるたびに大手の下請け、孫請けをうかがう地元業者がこの利権にむらがる。中央も地方も構図は同じ。そこに政治がからみ、暴力団がつけこむ隙が生じていた。
くわえて熊本固有の事情、積年の激しい政争がからんで事情を複雑でわかりにくいものにしていた。知事がかわればデパートも銀行も旅館も料理屋も、県庁御用達業者は総入れ替えされるという激しい政争である。
その典型例を『地方記者』から引いて紹介する。

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◆政治が払わされた大きなツケ
 昭和37年(1962)、ときの建設大臣・河野一郎が参院補選応援のため熊本入りする。
 この補選、翌年の知事選の代理戦の様相を呈していた。現職の寺本広作と熊本市長から挑む坂口主税、保守を二分する激しい争いが予想されていた。
はじめ河野は坂口に肩入れするはずだったが、中央情勢の変化で一転寺本支持に傾く。
「裏切った」と息巻く坂口派、「河野先生を守れ」と寺本派、一触即発の不穏な空気のなかに建設大臣がやってくる。
熊本駅頭から各地の演説会場は異様な空気に包まれた。警備に当たる警察官とは別に明らかにその筋とわかる六、七十人が自民党の腕章をつけてたむろしていたという。
「凄かったですよ。イレズミはおる。腹巻きからドスやピストルがのぞいて見えとる。警察は何しとったんでしょうかね」
 当時の目撃者の証言。わたしはまだ熊本赴任前で目撃したわけではない。なぜそんなことになったのか。
 以下は当事者の一人(故人)の証言記録から―。
「(河野来熊の)前日、S代議士、N代議士、寺本知事もおられるので、すぐ来てほしいと電話があった。坂口派が演説を妨害するかもしれぬので大臣の警護と演説会場の警備を頼まれた。引き受けたと返事すると、寺本知事は合掌されたことを覚えておる」
 この証言者、K県議は組長と目されていた人だが、早速「友人のU組組長(市議)を旅館に呼び」二十万円を渡して「若い者たち」の手配を頼む。
 当時、K県議はО組組長と大牟田駅まで河野建設大臣を迎え、列車に同乗して熊本まで来る。雨のため駅頭の演説会はとりやめて市公会堂へ。
「会場にはM県議(組長)が配下数十人と警備にあたっていた」という。

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 この証言記録は、細部にわたりきわめて具体的で信頼できると思える。
 演説会警備に暴力団の手を借りなければならぬほどの選挙戦の過熱と政争の根深さ。当然、暴力団も二分され、選挙後にしこりを残した。
 軽々に暴力団の手をかりた政治は、そのツケ(利権)の支払いを求められ続ける。やがて手に負えなくなった政治は、警察の手をかりて大掃除に乗りだす。そんな捜査がはじまろうとしていた。