第三十七回 「民主主義の学校」で学んだこと

三原 浩良

◆「追及するならバラす」
 四十年秋、熊本県警は「土建暴力特捜本部」を設置して、政治・行政と暴力団系土建業者との癒着に大なたをふるいはじめる。政治の力では排除できないほど、暴力団系業者の力が大きくなり、ついに警察力による大掃除が始まったのである。
 翌年夏にかけての〝三百日捜査〟で、県議2、市議3、町村議3、県職員5、市職員3を含む建設業者など百三十七人が逮捕され、政界や行政、建設業界は大騒動となった。
 住民からの投書や情報提供が山のように寄せられたというから、世論はあきらかにこの摘発を支持していた。しかし、自殺者がふたりも出るなど捜査はかなり荒っぽいものだった。
 さて政治・行政の側はどうだったか。この大捜査のあおりで、熊本市土木部は戦々恐々で、ほとんど仕事にならなかったのではなかろうか。
 一年のうちに土木部三人の課長のうち二人と職員七人が逮捕され、土木部が県警の家宅捜索を受けること四度にも及んだ。 

◆「逃げも隠れもせん」
 県警は当初からM県議と木下富雄市議をターゲットにすえていた。担当記者たちにそう広言してはばからなかった。
 M県議とは、先の証言記録末尾に「会場にはM県議(組長)が配下数十人と警備にあたっていた」とある、あの県議である。
 M県議逮捕のあと、警察は捜査大詰めのターゲットを木下市議にしぼり、「なかなかシッポを出さぬ大物」「業界を影で操る実力者」などとリークし、名指しこそしないが明らかにそれとわかる記事を書く新聞もあった。
 捜査が大詰めを迎えていた四十一年五月、「逮捕近し」と噂される木下議員(木下建設顧問)と夕食をともにする機会があった。木下建設の社長逮捕の直後だった。
「逮捕されるいわれなどない」と彼は強気だったが、身辺に迫る捜査の動きに覚悟をきめている様子だった。数日後、彼は捜査の行き過ぎと人権無視を訴える国会への請願書を携えて上京する。
 すかさず県警は恐喝容疑で指名手配する。その翌日か翌々日だったか「木下ですが」と当の本人から支局に電話があった。
「警察が捜しとるらしいが、わたしゃ逃げも隠れもしとらん。ホテル・ニュージャパンの○○号室におるから警察に言っといてください」
 後にも先にもこんな経験ははじめてだから正直なところ少々あわてた。黙殺すれば犯人隠避になるのか? かといって警察に連絡する気にはならぬ。警察はとっくに所在をつかんでいるはずだった。数日後、彼は東京で逮捕された。
 しかし、わたしはこれまでの彼とのつきあいや言動から、警察のリークする情報を疑問視していた。
「あんたにも確か尾行がついていたんじゃないかな。警察はあんたが捜査妨害していると記者たちに言ってるよ」
 後日、やはり地元記者が耳打ちしてくれた。なるほど、これで先の料理屋の一件も納得がいった。

◆「暴力団」も「起訴事実」も否定した判決
 木下氏に再会したのは、三年後の四十四年三月、福岡高裁の法廷だった。
 恐喝、公正証書原本不実記載、同行使、道路法違反、不動産侵奪、入場税法違反の六つの容疑で起訴されていたが、一審の熊本地裁判決は、逮捕容疑の恐喝をはじめすべてを無罪、ともに逮捕された身内四人もすべて無罪だった。
 わたしは判決時、福岡に転勤していたので一審判決は傍聴・取材できなかったが、担当の同僚記者は判決の模様を次のように記録している。
「その瞬間、法廷はざわめいた。傍聴席でメモをとる刑事も一瞬、手を休めて自分の耳を疑ったようだ」(「サンデー毎日」)と。
 それはそうだろう。黒幕だとしてターゲットにしてきた被告の罪状が全否定されたのだから。それだけではない。警察・検察は彼を暴力団木下組組長だとしていたが、判決は「十五人の組員をもつ暴力組織だという検察側の主張を細かく検討すると、組織の実在は確認できない」とあっさり否定した。
 メンツ丸つぶれの地検は即控訴したが、福岡高裁の控訴審判決は六つの容疑のうち五つを無罪、唯一の有罪は別の建設業者から人を介して受け取った政治献金が、仲介者の恐喝と認定され、その共犯として懲役八月、執行猶予二年だった。
 木下氏は「わが身の不徳」と言うように、戦時中に侠客にあこがれ、事件も起こしている。その筋とも付き合いがあったことも事実だが、私の知る彼は、まじめに市政に取り組み、社会党や共産党の議員とも親交を結び、議会では是々非々でことにあたっていた。どうみても暴力団組長とは思えなかった。
「何だ、これは」
 判決を手にした木下氏は、憮然としてひとこと吐き捨て、裁判所をあとにした。
 全財産を裁判につぎ込み、政治生命も絶たれて手にした判決がこれだった。
 これは別件逮捕による冤罪ではないのか、暗然たる思いで判決を見つめた。政治と警察権力と、同調したメディアが、木下富雄から事業も政治生命も身ぐるみはぎとって葬り去ったのである。

 しかし、事件の背景には政治的な事情がからんでいた。保守政界の永年にわたる激しい政争は、演説会の警備に暴力団の力を借りねばならぬほど過熱し、その暴力団をも二分して、選挙後にしこりを残していた。
 選挙で軽々に暴力団の支援を求めた政治は、やがてそのツケとして利権を求められるようになり、いつのまにかその力は政治の手に負えないほどに成長していたのである。
 政治の力で排除できなくなった挙げ句に、警察力に頼って大掃除をしてもらったというのが、あの事件の深層であり、真相ではなかったかと思う。

「地方議会は民主主義の学校である」と言われるが、この〝土建暴力事件〟を通じて、わたしはたしかに70年代の地方議会の「民主主義」の実態を勉強させてもらった。おかげでその後、地方議会をみるときには、まずは利権のからみから斜めにみる悪弊が身についてしまった。