第三十八回 水俣病事件との遭遇

三原 浩良

◆『苦海浄土』にうちのめされ
「あなたは石牟礼道子さんの『海と空のあいだに』を読みましたか」
 渡辺京二さんに呼び出され、喫茶店で向き合ったのは、たしか43年(1968)の春だった。「海と空のあいだに」は渡辺さんが編集・発行人であった雑誌「熊本風土記」に連載されていたのだが、うかつにも目をとおしていなかった。
「まだ? そりゃ、いかん」と、初対面の渡辺さんは翌日、創刊号から連載分をそろえて届けてくれた。
 いまでは周知のことだが、「海と空のあいだに」は、翌年『苦海浄土《わが水俣病》』と改題、改稿のうえ講談社から刊行された石牟礼さんの代表作の初稿である。
 一読、身震いするほどの衝撃にうちのめされた。数ヵ月後、ある冊子の編集後記に興奮気味にかきとめている。

「連載第一回の山中九平少年を読めば、筆者が抑えに抑えた筆致のあいだからたちのぼってくる、なみなみならぬ緊張はまことにただならぬものであった。しかし(この作品を)遅ればせながらも渡辺氏の好意で読んでいたことで、私は新聞記者として大きな過ちをおかさずにすんだことを、この両氏に感謝せずにはおられません」

 この作品が描きだす世界、患者群像と加害企業の悪辣きわまるやりくちは、「まことにただならぬ」ものであった。ふるえるほどの憤りの一方で、五年近くもこの地で暮らしながら、車でわずか二時間ばかりのところでいまなお進行中の「事件」に、「記者として」ほとんど無関心であったことに激しい衝撃を受けていた。
「なぜ、お前は?」と、誇張でなくほとんど身もだえせんばかりのショックだった。
 それまで水俣病についての知識は皆無といってよかった。学生時代に読んだ水上勉の『海の牙』は、題材を水俣病にとってはいたが、推理小説仕立ての作品だったから、熊本赴任後も思いだすことはなかったのである。

◆「直視せよ」と思いつつも
 しかし、うちのめされたままでいるわけにはいかない。あわてて探した資料を読み込んで、ともかくも水俣へ向かった。石牟礼さんと、水俣市議の日吉フミコさんが、「苦海」に漂いだすわたしの水先案内人だった。
「視線をそらしてはならない、と胸につぶやきながらも、ハッと息をのんだ。たじろいだ。いや、出来ることなら逃げだしたいと思った」
 わたしが水俣病についてはじめて書いたルポの書き出しである。
 日吉さんの案内で患者多発地区の漁村で、胎児性水俣病患者の少女にはじめて出会ったときのことである。このつたない書き出しに、過去の自分の無関心へのうしろめたさが透けて見える。
 母の背におぶわれた102号患者のFちゃん、十一歳。耳はかすかに聞こえるが、口はきけない。目は極端に視野が狭く、開いたままの指は閉じることがない。オムツははずせず、歩行不能。まだ首のすわらぬ赤子のように首がグラリとかしぎ、オカッパ頭の髪がバサリと落ちた。むごい。直視できなかった。
「写真を撮らせてもらえませんか」と、口ごもりながら切りだすと、母親はあいまいにうなづいたように見えたが。
「撮ってもらわんばたいね。世間の人にようと知ってもらわんばならんもね」
 日吉さんの口ぞえで了解をもらい、あわてて二度、三度、シャッターを切った。
 いま、茶色に変色した記事の切り抜きのなかで、ファインダーごしに見つめた十一歳の彼女がわたしを見つめている。
 それがはじまりだった。

◆メディアの大キャンペーン
 水俣病理解の手引きになったのは、水俣病の原因を解明した熊本大学医学部の研究論文集『水俣病』、表紙が赤いので「赤本」と呼ばれていた。
 そして東大助手の宇井純氏が富田八郎(とんだ・やろう)という人を食ったペンネームで、合化労連の機関誌「月刊合化」に長期連載した「水俣病」をまとめた分厚い、いわゆる「白本」。
 後者は水俣病の全経過を膨大な資料をもとに克明に描きだした労作。この連載を新書版にコンパクトにまとめた『公害の政治学《水俣病を追って》』(三省堂新書)が43年夏に出版され、新聞各紙のキャンペーンのきっかけとなった。
 この本で、漁協や患者に敵対してチッソを擁護したと名指しで非難された寺本広作・熊本県知事は、県議会壇上で本をふりかざし「真っ赤なウソを書いている」と声をはりあげた。
 富山のイタイイタイ病に続いて、水俣病の政府による公害認定間近といううわさが流れると、報道はヒートアップした。とりわけ朝日新聞は取材バスを現地にくりだし、連日のように紙面を大動員してキャンペーンを展開し、各紙も追随した。
 いずれも『公害の政治学』で明らかにされた事実の裏づけをとるかたちで報道はすすんだ。スクープはほとんど宇井さんによるものだったと言ってよい。
「おい、また抜かれてるじゃないか。朝日のこの記事はどうなんだ」
 早朝から本社のデスクに叱られる。
「それはもう宇井さん本に書いてありますよ」
「そうだったかな。ああ、ホントだ」
 わたしは腹をたてていた。水俣病は新日本窒素(現チッソ)工場が垂れ流した排水に含まれる有機水銀が原因、と明らかにされて以来十五年もメディアは水俣病も水俣病患者も忘れてきた。
 だから本社のデスクや先輩記者たちもほとんど水俣病に関する知識がない。自分だってここ数ヶ月のにわか勉強で仕入れた情報をもとに記事を書いているのだが、それでも腹をたてていた。
 遅ればせながら応援の記者が送りこまれてきた。ところが、漁協前に山積みされたトロ箱の写真を撮って「水俣の魚が売れなくなった」などと風評被害をばらまくような心ない記事を書く。漁協にトロ箱が積んであるのは当たり前のことなのに。
 そんな応援記者は迷惑だ、引きあげてほしいと支局長を通じて強く撤収を求めた。本社とわたしの関係は一挙に悪化した。無理もない。しかし、わたしも譲れなかった。