第三十九回 企業城下町・水俣の素顔

三原 浩良

◆「書きたてないでください」
 昭和43年(1968)、水俣。
「今年はすべてのことが顕在化する。われわれの日常の足元にある亀裂がぱっくり口を開く。そこに降りてゆかねばならない」
 石牟礼道子さんは『苦海浄土』のなかで、こう予言している。
 やがて予言どおり、「沈黙の苦海」に沈んでいた水俣病をめぐるさまざまな動きが姿をあらわしてくる。時系列で追ってみる。
 まずこの年1月、新潟水俣病患者の水俣訪問をきっかけに、石牟礼さん、日吉フミコさん(水俣市議)や市職員など有志によって「水俣病対策市民会議」(のち「対策」を削除)が発足する。彼らは患者を訪問調査し、チッソや行政の非道を訴え、患者支援に動きはじめる。
 昭和28年(1953)の第一号患者発生から十五年、「死者三十万円」という悪名高い〝見舞金契約〟が患者に押しつけられて八年。弧絶していた患者たちも新潟の患者や市民会議に励まされ、水俣病の「公害認定近し」の情報に補償交渉に動きだす。
 3月、患者団体と市民会議は連名で熊本県議会に患者救済を請願、上京して国会と関係各省庁に陳情。『苦海浄土』によれば、「市民会議の動きと並行しつつ」地元紙熊日キャンペーン「水俣病は叫ぶ」、続いて朝日新聞キャンペーン開始、と。
 わたしも取材にため水俣に常駐し、その渦中にあった。バイクで走りまわっているうちに、企業城下町の暮らしの重苦しさ、えもいわれぬ不気味さをひしひしと感じるようになる。
「水俣病なんて昔のことですよ。一部のひとたちが騒いでいるだけで、大半の市民には関係ないことです。早く静かになってほしい」
 定宿にしていた旅館の主は朝夕の食事時には、かならず〝迷惑な〟この泊り客に語りかけ、「あまり書きたてないでください」とつけ加えた。

◆市民不在の異様な合同慰霊祭
 この年九月の水俣は異様な空気につつまれていた。政府の公害認定近しというので、水俣市、チッソ労使、各団体はあわてふためき、市民はパニック症状を呈しはじめる。
 これまでほとんど患者を無視してきたと言ってよい水俣市は、あわてて「水俣病死亡者合同慰霊祭」を思いつき、9月13日に市公会堂で開く。
 これがまた異様だった。当時のわたしの記事から―。

…………………………………………………………………………………………………

 中央一段と高い祭壇に四十二人の遺影。正確に言えば、三十九の遺影と生まれたばかりで写真もなかった三人の名札が飾られ、左右に熊本県知事寺本広作、水俣市長橋本彦七と大書した花輪が参列した遺族や患者を見おろしていた。
 遺影たちは、両側に居並ぶ来賓知名士各位をハタとねめつけるようでもあれば、大きな花輪に両側からはさまれてどこやら居心地悪げにもみえた。(中略)
 予想外の異様さとは、徳江チッソ水俣支社長が患者、遺族より一段と高い席にすわり、一般席としてしつらえられた市民席には、一人としてすわるもののいなかったことである。「おかしな慰霊祭ですね。市民はわたし一人」と石牟礼さんは繰返していた。
 しかし、この慰霊祭はまさに社会病理としての水俣病の、諸所見をみごとにそなえていた。死者たちは一度呼びもどされ、そして再び葬り去られようとしていた。

…………………………………………………………………………………………………

信じられないことだが、市民にはこの慰霊祭は知らされていなかったのである。翌朝、新聞に折込まれたチッソ新労(第二組合)のチラシを読んだ市民は驚愕する。
「市民の皆様はこの問題(公害認定)が水俣市の発展に暗い影を落とすのではないかという不安をお感じになっているのではないか」と書きだし、チッソの社長が労使交渉で「水俣市民及び従業員の協力を得られなければ撤退もあり得ることを示唆しました」と続く。
 慰霊祭にあわせたように、チッソは「水俣に異常事態が生じており、地元の全面的協力が得られねば(再建)五ヵ年計画は進められない」と水俣からの撤退をほのめかす。チッソ労使の反キャンペーンが始まったのである。
 ほとんどの市民の生活は何らかのかたちでチッソに依存している。チッソ従業員は「会社行きサン」と呼ばれる企業城下町の素顔があらわになり、「寝た子(水俣病)を起こすな」という大合唱がわきおこる。

◆「主たちゃよかね、補償金で蔵が建つ」
 9月22日、対岸の天草選出の園田直・厚生大臣が水俣入りする。水俣市役所で待ち構えていた患者たちは、ひたすら「お願いします、お願いします」と繰り返した。弧絶する患者たちのすがるような思いが、痛いほどに伝わる請願だった。
 9月26日、厚生省は「新日本窒素水俣工場の排水に含まれるメチル水銀が水俣湾内の魚介類を汚染した」と企業の責任を明確にし、水俣病を公害と認定した。
 9月27日、公害認定をうけてチッソの江頭豊社長が患者・遺族宅を「お詫び」にまわった。一行は患者や遺族宅で仏壇に合掌し、短い「お詫び」の言葉をつぶやき、次の遺族宅に向かう。
 が、足早に立ち去れぬ家もあった。
「会社ばもっていくちゅうが、東京でん、大阪でん、どこでんすぐもっていけ。会社、会社て会社のなからんば、生きていけんごつ言うが、天草の人間なカライモでん、ムギでん食うて生きとるとるばい。こらああたどんが言わすっとばい。おるが言うとじゃなか。まちがわんごつしてくれんばん」
 両親を水俣病に奪われた彼女のひとことひとことは、並みいるものを粛然とさせる鬼気迫るものだった。
患者・遺族たちのつもりに積もったウラミ、ツラミ―それは「会社の奴どんに水銀ば飲ましょうごたる」「もとん体にしてもどせていおごたる」など、いままであからさまには口にできなかった思いが彼女にのりうつったかのような呪詛の吐露であった。
それは加害企業チッソだけに向けられたものではなかった。
「お前たちがこぎゃんこつばするけんボーナスの下がるったい」と毒づいたチッソ従業員、「ぬしたちゃよかね。補償金で蔵ん建つたい。わしも水銀ば飲もごたる」と嘲笑した隣人たちにも向けられていたといってよい。

◆「市民の世論に殺される!」
 一行にひと足おくれて患者家庭互助会の山本亦由会長宅についた石牟礼さんはつぎのような光景を目撃した。

…………………………………………………………………………………………………

「小父さん、もう、もう、銭は一銭もいらん! 今まで、市民のため、会社のため、水俣病はいわん、と、こらえて、きたばってん、もう、もう、市民の世論に殺さるる! 小父さん、今度こそ、市民の世論に殺さるるばい」
「みんないわす。会社が潰るる、あんたたちがおかげで水俣市は潰るる、そんときは銭ば貸してはいよ、二千万円取るちゅう話じゃがと。殺さるるばい、今度こそ」(『苦海浄土』)

…………………………………………………………………………………………………

 四十八歳(当時)の重症患者の婦人が嗚咽とともに吐き出した訴えである。
「彼女のその姿はこのあと九月二十九日に行なわれた〝水俣市発展市民大会〟の景色に重なるのである」と石牟礼さんは書く。
 その市民大会もまことに異様なものであった。