第四十回 続・企業城下町・水俣の素顔

三原 浩良

◆「チッソとともに」の大合唱
「世論に殺される!」と、患者互助会長宅に駆けこんだ患者が泣きながら訴えた「市民の世論」とは何か。
 それを臆面もなく表現してみせたのが昭和43年(1968)の「水俣市発展市民大会」である。少々長くなるが、その模様を記事から引いておく。

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 1・水俣病患者家庭互助会を全面的に支援する
 2・チッソの再建五ヵ年計画遂行を支援する
 このふたつのスローガンを掲げて9月29日、水俣市発展市民大会が開かれた。発起人は商工会議所からパーマ協会、風俗営業組合まで五十六団体の会長、婦人会、青年団体も含めたもので、中心は商工業者の団体。
 その趣意書は「チッソとともに栄えた水俣市は……三十七年の大争議を境として何かが狂い始め……この病弊が、今回の水俣病問題にも端的に現われ……再び繁栄途上にある水俣市に暗い影をなげかけております。さらにこの遠因はチッソにあるとはいえ、その責任を追及するあまり、現状打開の道を失っているのではないか」と訴えかけていた。
 水俣病患者支援を打出した市民大会は、おそらくこれが初めてである。しかし、チッソ支援もあわせてかかげたところに、この大会のきわだった特徴があった。そのことはつぎつぎに壇上に上がった知名士たちの、どこか歯切れの悪い弁解じみた口調にもにじみでていた。
 田中商工会議所会頭は「(大会)会長就任を断ったのだが……」と述べ、下田青年団長は「チッソと市民が心をひとつにして……」と訴え、大崎婦人会長は「会社行きさんならヨメにあげますという人情豊かな町にもどそう……」とこもごも訴えかけた。
 橋本市長は「会社、従業員、市民が心をあわせればチッソの再建はできるはずだ」と強調、広田市会議長は「これまでも不幸な人たちにはある程度のお手当てはしてきた」といい、松山漁協組合長はただひたすら「いまの魚は安全です。安心して食べてほしい」と訴えた。
 それはまことに異様な大会であった。「患者を支援する。しかし、チッソの再建計画遂行には十分協力する」ふたつのスローガンはこの「しかし」という逆接の接続詞で結ばれる関係にあった。それはまた九月十四日付の新労のビラが落とした「暗い影」と「地元の協力がなければ……」という新労に対するチッソ社長の回答にピタリと照応するものであった。

◆患者がボイコットした「患者支援」大会
 この大会に参加を求められた山本亦由・患者互助会会長は「十年もうっちょいていまごろ……。自分たちゃ会社と自主交渉するから、はたからなんのかのといわんごつして下さい」と参加を断ったという。
 その山本会長に「いままでん悪かこつっあすんまっせん。ばってんああたたちも水俣市民ちゅことを忘れんで交渉してはいよ」と要請したという山口義人氏は、この大会で唯一とも思える〝肉声〟で訴えた。
「公害認定されてから工場ひきあぐるなんちゅう社長はどぎゃんかい。チッソの社長ともあろう人が、こっじゃ困る」
 しかし、まったく皮肉なことだがこの市民大会の数時間後、江頭豊チッソ社長は「全面撤退などありえない。誤報だ。現に新工場も完成したばかりだ」と記者会見で答えていた。さらに
――チッソが要請する地元の協力とは具体的にどんなことか。
「長期ストなど面倒があるようじゃ……」
――それでは、地元の協力とは労働組合の協力のことか。
「…………」
というやりとりがあった。
 市民千五百人を集めて開かれた「水俣市発展市民大会」は患者からボイコットされ、〝合同慰霊祭〟は市民からボイコットされることで、病む水俣の姿を象徴的に表現していた。患者たちの補償交渉はそうした水俣の空気の中ではじまろうとしていた。(「毎日新聞」熊本版、10月19日)

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◆マスコミは「忘れっぽいよそもの」
 患者を「殺さんばかり」の水俣の状況を、『苦海浄土』は、次のように描きだす。

 水俣病ばこげんなるまでつつき出して、大ごとになってきた。会社が潰るるぞ、「水俣は黄昏(くれ)の闇ぞ」仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻々や、テレビの前で論議しあっていた。水俣病患者の百十一人と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という論理が野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。マスコミの関心とそれは反比例していた。マスコミなどはよそもの中のよそものである。
 報道陣の主力の大半は二十六日、政府見解が出た時点でひきあげていた。新聞の論調はもはやしめくくりの段階に入ったようだった。おそろしくマスコミは忙しく忘れっぽい。

 そうはならじ、とわたしは市民の大合唱に「反比例する」記事を書かねばならぬ、この異様な空気はなんとしても伝えねばならぬ、と意気込んでいた。
 この時期、わたしは取材の焦点を、補償交渉の行方と潜在患者(未認定患者)に絞りつつあった。
 前者はやがて一任派、訴訟派、自主交渉派と患者(団体)の分裂をもたらしながらも、チッソは次第に追い詰められていく。
 後者はやがて膨大な認定申請が相次ぎ、認定の基準をめぐって国や県の責任が最高裁まで争われ、いまだに決着したとは言えない。
 そんな狙いで「水俣病―公害認定はされたが」というタイトルの連載記事を提案したが、社会面には「そぐわない」と本社から断られ、やむなく熊本版で連載した。
 先に掲げたのは連載三回目の記事だが、『苦海浄土』第七章にそっくり転載されて、より多くの人の目にふれることになり、やや面目をほどこしたものの、わたしはあいかわらず腹をたてていた。