第四十一回 知事に「喜ばれた」? 転勤

三原 浩良

◆「このままでいいのか」と焦る
 昭和43年(1968)、水俣病公害認定直後の秋。
 このままでは患者たちは、「水俣の世論」にねじ伏せられ、「命の値段30万円」という、34年の悪名高き〝見舞金契約〟が再現されてしまうのではないか。そんな焦燥感にかられていた。むろんわたしだけではない。
 ―ある人は「もしかすると患者たちは三十四年当時と同じ、あるいはもっとひどい孤立状態に陥るのではないか」と言う。それを杞憂だと言い切れるだろうか。
 熊本日日新聞の久野啓介記者も水俣ルポにそう書いていた。
チッソの工場廃水に含まれる有機水銀が水俣病の原因であると確定したころ、「これは未必の故意による殺人ではないのか」と熊本地検の検事に問うた「慧眼の地元記者」がいたことを宇井純氏は『公害の政治学』で明かしている。
「あの記者は誰ですか?」と久野さんに聞くと、「あれ、僕なんです」とやや気恥ずかげに打ち明けた。驚くと同時に「さすが」と思った。
 そんな危機感を共有する久野さんと、まずは自分たちのルポや企画記事を小冊子にまとめて、あちこちに配った。
 かたわら、同じ危惧をいだく人たちで「何とかしなきゃ」「何ができるか」と何度か集まりをもった。NHKや新聞社のメンバー10数人、なぜかメディア関係者が多かった。
 水俣では患者家庭互助会とチッソとの補償交渉がはじまっていたが、チッソは〝お詫び行脚〟で約束した「誠意」など示さず、ゼロ回答を続けていた。

◆一枚のビラから「告発する会」が発足
 翌44年春、事態は一気に動きだす。
 4月13日、患者家庭互助会はついに分裂する。厚生省は第三者機関による仲裁を提案、「委員の人選は一任、その結論には異議なく従う」という、白紙委任の確約書提出を患者に求める。この確約書の原案はチッソ作成であることが国会で明らかになる。確約書の提出を拒んだ患者は訴訟を決意し、患者団体は、一任派と訴訟派に分裂した。
 熊本市でも患者支援運動ができないか、と石牟礼道子さんの要請を受けた渡辺京二さんは4月15日、「チッソ水俣工場前に坐りこみを!」と呼びかけるガリ版刷りのチラシを街頭で配り、17日にチッソ工場正門前に座り込む。この一枚のビラがやがて「水俣病を告発する会」の結成につながっていく。
 以下は当時NHK熊本放送局のアナウンサーだった宮沢信雄さんのメモから―。

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 4月20日(福祉会館) 渡辺京二さんの主唱で水俣病にとりくむ人たちの集会。三原さんも来ている。集まった人たちは、高校の先生、県庁の人、NHKその他で最終的には三十人くらいになったろうか。主義主張に関係なく、水俣病を自分自身の問題と考える者たちが何らかの行動をするという集まり、である。

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 この集まりが「水俣病を告発する会」の事実上の発会であった。その後の活動については次回以降に書くが、先の宮沢メモに「三原も来ている」とあるように、実はわたしはこの年2月、福岡に転勤になっていた。福岡から駆けつけたのだろう。
 熊本支局在勤5年半。新聞社の一般的な常識から言えば、確かにながい。あとからやってきた後輩記者たちが次々に転勤していった。異例ともいえるながい熊本在勤は「転勤希望調査」なるものに、いつも「本社以外ならどこへでも」と書くへそ曲がりだったからかどうかは知らない。

◆秘書課長、苦笑いの含意
 県庁に転勤挨拶にゆくと、親しかったY秘書課長が「知事はあなたの転勤を心からお喜びです」とふくみ笑いをしながら、餞別を差し出した。
「新聞記者が受け取ってよい金は餞別だけだ」と、かねがね先輩たちから教えられていたからありがたく頂戴したが、Y課長の苦笑の含意はよく理解できた。
 知事・寺本広作氏は、気に入った記者にはよく会うが、毛嫌いする記者には会おうとしない。県政に批判的な記事を書く某先輩記者を名指しで、転勤させるよう本社に働きかけたという伝説のあるお方であった。
 その寺本知事が、A社とB社の本社からやってきた記者の取材申し込みを拒否した。「地元の記者にじゅうぶん話しているから必要ない」とケンもホロホロの玄関払いだった。
「そりゃおかしい。会うべきだ」と県庁の記者クラブが抗議した。わたしも「取材拒否は論外だ」と激しく抗議したおぼえがある。「これじゃ、まるで労使交渉じゃないか」と、知事は渋面をこわばらせて、わたしに詰め寄った。
 チッソに抗議する漁民や患者に敵対してチッソ擁護にまわった、と寺本氏は『公害の政治学』できびしく非難されていた。「この本は真っ赤なウソを書いている」と彼は県議会壇上で大見得をきってみせたが、信じる人は少なかった。
 その知事からの「餞別」を、わたしは「勲章」と思っていただいた。思えば、わたしも若かった。
 この転勤直前に、忘れられぬ出張取材が舞い込んだ。佐世保市に米原子力潜水艦・エンタープライズ号が寄港した〝エンプラ事件〟である。