第四十三回 記者失格のハイジャック事件

三原 浩良

◆あこがれの公団住宅
 昭和44年(1969)2月、佐世保の「エンタープライズ騒動」の取材を終えると、熊本に想いをのこし、あわただしく福岡に転勤した。
 5市が合併して誕生したお隣りの北九州市は、人口百万を越えてひと足先に政令都市になっていたが、福岡市も急速に人口膨張中で、やがて北九州市を追い越す。街には上昇気流にのって活気がみなぎっていた。
 社員寮で単身生活のあと、公団住宅の2DKに入居した。今では信じられぬかもしれないが、当時は公団の2DKはサラリーマンにとっては憧れであった。それは都市生活への憧れだったかもしれない。公団住宅は九州では福岡、北九州両市と鹿児島市にしかなかった。入居の競争率もけっこう高く、しばらく待たされた。まだ住宅用の電話を申し込んでも二年は待たされる、なにもかもが急激に膨張する時代だった。
 福岡は記者の数も多く、とにかく忙しかった。いわゆる社会部だったが、わずか二年のあいだにサツ回りから遊軍、司法、行政担当とめまぐるしく持ち場がかわり、なかなか落ち着いて仕事ができない。イライラがつのりはじめていたころだった。思わぬ大事件に遭遇した。わが国最初のハイジャック事件である。

◆「アッ、タカマロだ!」
 昭和45年(1970)3月31日早朝、赤軍派を名乗る武装した9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を乗っ取り、乗客122人を人質にとって北朝鮮に向かうよう要求した。
 タクシーで別の取材先に向かう途中だった。「板付は大変らしいですよ。飛行機がハイジャックされたらしい」と運転手さんに教えられ、あわてて福岡総局に引返した。
 思いもよらぬハイジャック事件に、取材陣は大混乱していた。それこそ「想定外」の事件発生にそなえがないのである。とにかく空港へ向かったものの、何をどう取材すればいいのか、上も下も混乱の極にあった。
 紆余曲折はあったが、日航機は福岡で人質の一部を解放、午後にはソウル近郊の金浦空港にいったん着陸した。しかし、金浦を平壌にみせかけた偽装は犯人に見破られる。数日間膠着状態が続いたが、4月3日になって山村新治郎・運輸政務次官が身代わりとなることで交渉がまとまり、人質は全員解放され、ハイジャック犯たちは要求どおり北朝鮮に亡命を果たした。
 日本刀をふりかざしてタラップに姿をあらわしたハイジャック犯を映しだすテレビの映像を見て、同僚のT記者が「アッ、タカマロだ!」と叫んだのには驚いた。
「エッ、知り合いなのか」と聞くと、犯人グループのリーダー・田宮高麿は大学時代の知り合いで、いっしょにアルバイトをしたこともあると言う。

◆叱責覚悟の現場離脱
 4月3日、韓国で解放された人質の乗客が、福岡空港に帰ってきた。その取材に総がかりで当たることになった。大勢の記者とカメラマンやテレビクルーが空港に集結し、降りてくる乗客に記者とカメラがわれがちに殺到する。ハイジャック以来の機内や犯人たちの様子を聞きだそうとするのである。
 その模様はすさまじかった。みな顔色をかえて乗客を独りじめしようと奪い合いになっている。わたしもその列に割り込まねばならぬのだが、かれらのいささか常軌を逸したふるまいを見て、その気がうせてしまった。
「あさましい!」とすら思った。「俺の仕事はこんなことまで……」と全身の力が抜けてしまった。
 たまたま並んでその様子を眺めていた学芸部の田中幸人記者に「おい、帰ろうや。こんな取材できないよ」と声をかけると、彼も同意。記者はいっぱいいる。誰かがやるだろう、と取材放棄して現場を離脱した。上司の叱責は覚悟のうえである。
 福岡総局に帰り着いたが、さすがに手ぶらで編集局にはあがりにくい。ままよ、と田中記者と一階のカフェでお茶を飲んで時間をつぶす。
 ところが、解放された乗客たちが三々五々このカフェにやってきた。彼らは興奮冷めやらぬ様子で、しきりに大声で話し合っている。福岡総局はホテルとの共同ビル、ホテルは日航のパイロットやスチュアデスの定宿だったから、日航はここに乗客を送り込んできたのである。
 何のことはない、労せずして機内の様子をたっぷり聞き、それをまとめて原稿にした。少々後味は悪かったが、現場離脱の件はほっかむりしてしまった。こんな身勝手な現場離脱では、社会部記者失格であろう。
 しかし、同じことが起きれば、わたしはまた同じ行動をとるかもしれぬ、といまでも思っている。
 いそがしく、落ち着かぬ福岡の日々をなんとかやり過ごしていたが、わが気持ちのおもむく先は、やはり熊本であり、〝水俣病事件〟であった。