第四十四回 厚生省占拠事件のインパクト

三原 浩良

◆逮捕も覚悟の上京だった
「もしパクられたら、年休届けを延長しておいてくれよ」
 昭和45年(1970)5月20日過ぎ、わたしは新聞社の同僚に頼んであわただしく上京した。
 水俣病の補償をめぐる事態は切迫していた。患者団体は、厚生省による第三者機関・補償処理委員会にすべてをまかせる〝一任派〟と、損害賠償を求めて訴訟に踏みきった〝訴訟派〟に分裂していた。
 法廷の審理が進むかたわら、〝一任派〟への補償処理委員会の回答日が迫り、新聞は処理委の補償提示額は死者300万円だろうと報じていた。
 前年、熊本市で発足した患者支援組織の「水俣病を告発する会」は、これでは34年の見舞金契約(死者大人10万円、子供3万円)の再現ではないか、と重大な決意をかためる。
「患者に訴訟派・一任派という区別は存在しない。われわれは、自分の直接的存在をそこによこたえることによって補償処理委の回答を阻止する」と、「東京行動」への参加を呼びかけた。
 わたしは逮捕もあり得ると覚悟をきめ、ひそかに背広のネームを剃刀で削り落とし、上京したのだった。
「阻止行動」の前夜、都内の喫茶店で宇井純さん、石牟礼道子さん、渡辺京二さんの四人で会った。何を話したのか覚えていない。宇井さんがやや興奮気味だったことはよく覚えている。わたしも興奮していたに違いない。
 同じころ、都内の別の場所では会場突入組の〝作戦会議〟が開かれていた。労働運動のオルグだったいまは亡き松浦豊敏さんが「逮捕必死の行動について淡々と指示を与え」ていたという(福元満治「さらば、カリガリの日々」より)。

◆「死者350万円」の〝命の値段〟
 5月25日早朝、日比谷公園に集まった百二十名は、死亡患者のパネル写真やプラカードをかかげて粛々とデモをしながら処理委の回答会場の厚生省に向かった。
「お前はいいよ」と、その朝、渡辺さんから突入組除外を通告された。「救対センター」(弁護士が待機)の電話番号まで暗記したのに……と思ったが、実は前日に決まっていたことのようだった。
 宇井さんや渡辺さんなど突入組の16人の仲間はあっという間に厚生省五階の処理委会場に駆けあがり、1時間にわたって会場を占拠した。
 外では石牟礼道子さんや「告発する会」代表の本田啓吉さんたちが「厚生省は企業育成省と名前を変えろ」「34年の再現は許さんぞ」と抗議のシュプレヒコールを繰り返していた。
 夕刻になって、警察は会場を占拠した13人を逮捕、都内各署に拘留した。全員が「完全黙秘」を貫き、28日になって釈放される。
 その前日、27日に一任派の患者たちは、補償処理委の「死者最高三百五十万円」という超低額の〝命の値段〟で妥結、調印していた。
 わたしは仲間たちが占拠する厚生省五階の処理委会場と、外の仲間たちのあいだを何度か往復して、なかの様子をみんなに伝えた。警備の職員に制止されることもあったが、「記者だ」と告げると、通してくれた。

◆とんぼ返りの「号外」づくり
 しかし、この日の、というかこのときのわたしは記者ではない。「告発する会」のメンバーのひとりに過ぎない。だから取材したり、記事を書くことはしない。
「報道を通じて協力する」という記者もいる。「記者が当事者になるべきではない」という記者もいた。だが、記者であったのはたまたまではないか。
 逮捕されたメンバーには、公務員もいれば会社員もいた。学生もいれば、放送局員もいる。もし、自分がキャラメル工場の工員だったら「仕事を通じて協力する」なんて言えるはずがない。記者であることを、行動に参加しないエクスキューズにはできない。
 あくまで「個として」、それが「告発する会」の行動原理であった。まあ、理屈を言えば、そんなことになろうか。

 仲間たちの逮捕の模様を見届けると、わたしはその足で熊本に向かった。
「告発する会」は、発足直後から月刊の機関紙「告発」を発行していたが、その「号外」を作るために熊本に飛んだのである。
 いま、手元のこの「号外」をみると、A4版12ページのボリュームたっぷりの堂々たるものである。しかし、どの記事を自分が書いたのか判然としない。
 余談になるが、「告発」に集まった人々のなかにはメディア関係者が多かったから、こんな充実した紙面を短時間につくることが可能だったのだろう。
「告発する会」の厚生省占拠事件は、その後の処理委の超低額補償とともに世間の耳目を集め、社会に大きなインパクトをあたえた。
 この行動後の街頭での資金カンパでは、予想をはるかにこえる額が集まって会員たちを驚かせた。メディアや人々から、ともすれば「辺境の地の公害紛争」とみられていた水俣病への人々の認識はかわり、以後も深い関心が寄せられるようになる。
 その意味でのちの「告発」の運動に大きな影響をのこす画期的な行動だった。