第四十五回 「怨」の黒旗と三島の自決

三原 浩良

◆「福岡・告発」もスタート
 昭和44年(1969)4月に発会した「水俣病を告発する会」は、6月の訴訟派患者の損害賠償請求訴訟の提訴にあわせ、月刊の機関紙「告発」の刊行をはじめた。これが大きな力になって支援運動は一挙に全国にひろがっていく。
 会の代表の本田啓吉さんは、「告発」第3号に「義勇兵の決意」と題して「敵が目の前にいてもたたかわない者は、もともとたたかうつもりなどなかった者である」と、みずからの決意を表明し、運動への参加をよびかけている。
 わたしたちはいつのまにか、それをいささか古いが、わかりやすく「義によって助太刀いたす」とよみかえて、運動のキーワードにしていた。
 この年秋、わたしは福岡で有志によびかけて「福岡・水俣病を告発する会」を発足させる。新聞社の友人たち、九州大学工学部の大学院生や青年医師などが集まり、石牟礼道子さんをよんで集会を開いたり、街頭カンパやデモをやった。はじめての街頭デモには前衛美術団体の〝九州派〟の絵描きさんたちがなだれ込んできて、夜には喧々諤々の議論になり、なんともにぎやかなスタートだった。
 熊本地裁での口頭弁論のたびに、熊本まで出かけたり、チッソ水俣工場への抗議デモにも参加した。当初からのメンバーだった新聞社の僚友、倉田真君は「告発」第10号に「このような取組みは患者さんへの単なる支援でなく、取組む自分自身との格闘だからです」と自身の立ち位置を明らかにしている。
 そう、既成組織に依存しない、あくまでも個人の発意による運動。それが「告発」の運動原理だった。
 翌45年春、中心街・天神の教育会館を借りてちょっと大規模な集会をやった。
 集会が終わって後片付けをしていると、一人の青年が訪ねてきた。葦書房という小さな出版社を福岡で起ちあげたばかりの久本三多君だった。なにを話したか覚えていないが、それが縁で、「福岡・告発」の事務所を葦書房の一角に借りることになった。
 彼は「告発」の運動に直接かかわることはなかったが、以後彼の夭折まで、ながく深い付き合いがはじまることになる。

◆三島由紀夫・自決の衝撃
「告発」の運動は、「東京・告発する会」をはじめ短期間に全国各地に異様と思えるほどのひろがりをみせる。
 その「東京・告発」が、チッソの株主総会に乗り込み、患者とチッソとの直接対決をめざす一株運動を提案し、11月28日の総会に乗り込むことになった。わたしも百株を三千六百円で購入し、はじめて株主というものになった。
 患者たちは白装束、菅笠に「怨」と染め抜いた黒いのぼり旗をかかげ、ご詠歌をうたいながら大阪の株主総会の会場に向かう。途中、福岡で一泊した。
 患者や支援者でいっぱいの旅館の一室でテレビが異様な事件の速報を流しはじめた。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に「決起」を呼びかけ、自決したという。テレビの前に釘づけになった。
 わたしは三島作品の決していい読者とは言えない。しかし、わたしよりひとまわり上のこの作家の「戦後民主主義の日本は、尊厳を持った美しい日本ではなくなってしまった。天皇が日本文化の価値それ自体でなければならない」などという主張には、とうてい共感できぬ違和を感じながらも、強い関心を抱いていた。
 その三島がこの日、自決した。彼は「天皇陛下万歳! と一緒に死んでいく者はいないのか」と呼びかけたというが、ほとんどの自衛隊員は「何をばかなことを」とあざけり、冷笑したという。
 衝撃だった。みずからの思想に殉ずる、おのれの肉体を思想のまえになげだすというその一点のもつ強烈な「批評」にショックを受けたのであろう。その衝撃はしばらくわたしの心底に重い滓のようにとどまって消えなかった。