第四十六回 〝自主交渉〟闘争の衝撃

三原 浩良

◆14時間の交渉を見守る
 水俣病闘争の話を続ける。
 昭和46年(1971)12月8日、わたしは東京・丸の内の東京ビル4階のチッソ応接室にいた。新たに水俣病と認定された川本輝夫さんら新認定患者とチッソ社長との〝自主交渉〟を見守るためである。
 当時の写真をみると、チッソの島田賢一社長をとり囲むたすきがけの7人の患者の後方で、石牟礼道子さんと並んで交渉の様子を見守っている。
 今回も取材ではない。「水俣病を告発する会」のメンバーのひとりとしての参加である。それにしても翌日未明にかけての14時間にもおよぶ交渉は、ときに鳥肌がたつほどに衝撃的で、また感動的でもあった。
 とはいえ、なにしろ40数年前のことである。少々くどくなるが、まずここにいたる経緯を簡単にたどっておきたい。

◆孤絶から飛翔する新認定患者
 申請者が水俣病患者であるかどうか、その認定は熊本・鹿児島両県の審査会にゆだねられていた。ところが、その診断基準は補償への波及をおそれてか、水俣病の病像をきわめて固定的、狭く設定しているために、ほとんどの申請が棄却されていた。
 川本さんも審査会に二度も否定されたが、膨大な反論書を用意して行政不服審査を請求し、この年8月環境庁は熊本県に再審査を命じ、新基準により次々と患者が認定されはじめた。
 この段階での新認定患者18人は、訴訟や第三者機関への調停などそれまでの患者が歩んだ道を選ばず、第三者をまじえないチッソと「あいたいで談判する」直接交渉の道を選んだ。これまでも各派の患者たちは直接交渉をもとめてきたが、いずれもチッソに拒否されていた。
 川本さんたちは「一律3000万円」の補償要求をまとめ直接交渉をもとめた。しかし、チッソは中央公害審査委員会に調停を依頼して、これを拒否した。このため患者たちは水俣のチッソ工場正門前にテントを張って、座り込みやハンストで直接交渉をもとめ続ける。
 ここにいたって「水俣世論」がふたたび激しく患者に襲いかかった。「会社を粉砕して水俣に何が残るか」「3千万円とはふっかけたもんだ。神経痛やアル中患者には多すぎる」「一斉検診では畳のへりをまっすぐに歩かぬ稽古をしてるヤツ、針で刺されても痛いといわぬ練習をしてるヤツもいた」など悪意や憎悪をむきだしにしたチラシを配って患者を誹謗・中傷しはじめた。患者たちの孤絶はさらに深まる。
 座り込みは長期化の様相を呈しはじめ、患者たちはチッソ本社に乗りこみ、一気に決着をはかることにする。「告発する会」は、この患者の決意を全面支援することを決め、全国の「告発」会員たちが上京する。
 そして12月8日、およそ200人の「告発」メンバーがチッソ4階を占拠し、応接室で始まった島田社長らチッソ幹部との交渉を見守ることになった。
 直接交渉の初日、島田社長に迫る患者たちの気迫はすさまじかった。患者たちは誇張でなく、自らの存在のすべてを賭してチッソに体当たりしていった。
 この自主交渉闘争は、越年して75日間もつづけられるが、この日の交渉はその全経過を通じて患者の魂魄が灼熱した白眉であった。そのごく一部をかいつまんでテープから再現してみる。

◆血書で署名を迫る
 川本輝夫:はっきりしてもらわんと困る。社長、今日はな、わしは血書を書こうと思うてカミソリば持ってきた。
 島田賢一社長:えっ。
 川本:血書を書く、血書を。要求書の血書を。あんたがわしの小指を切んなっせ、ほら。
 島田:それはご勘弁を。
 川本:あんたの指もわしが切る。いっしょに。
 島田:それはご勘弁を。
 石田勝:あんたは、ほんとに患者の苦しみば知っとっとね。自分の子供はね、もう針で刺しても何で突いても、はい、はいと返事がでくるだけですよ。それがわかっとっとね。胎児性ですよ。
 川本:切れえ、おい、社長。おまえが切らんならおれが……。最高責任者じゃろうが、切れえ。伊達や酔狂で東京まで来とらんぞ。日本全国の貧しいながらのカンパで来とっとぞ。おい、切れ、切らんかあ、社長。くやしいよ、ほんなこて。
 石田:口の先ばかりでごまかしていく人間に、われわれ人間の苦しみがわかるか。
 川本:一任派の人たちがどげん苦しみか、知っとるか、お前たちゃ。胎児性の患者はどげんしとるか、おまえ。今まで、おまえ、どれだけ……。きのうからこうやってずうっと同じようなことを聞いてきたぞ。
(進展のないまま交渉は深夜におよび、島田社長は血圧があがって倒れ、交渉は中断された。担架で運びだされるまでソファで横になる社長の枕元にとりすがって号泣しながら川本さんが懸命に話しかける)

◆倒れた社長にかきくどく
 川本:私たちも熱でもう頭が混乱しそうですよ。胸は張りさけそうですよ。ましてこんな病人を相手にしなけりゃならんことは悲しいことですよ、私たちも。第三者が見たら、いかにも私たちが鬼みたいに見えるでしょう。こんな病人をつかまえて。
 入江専務:川本さん、そう泣かんでくださいよ。
 佐藤武春:あんたたちが、本当に誠意があるなら、こうして社長が具合悪いから、社長がでけんから、私たちが引き受けますから、と言うとが、当然でしょうが。
 入江専務:それはね、会社の重要な問題ですから、社長がね、トップですから……。ですから、ちょっと、いっぺん帰してください。
 川本:帰れ、もうよか。話し相手にゃならん。よか、もう帰れ。後はどうなっても知らんぞ。おらもう。十二時間も十三時間も話し合って何じゃこりゃ。帰れ、早う。もうよか。
 佐藤:連れていかんな、早う。
 川本:社長、わからんじゃろ、俺が泣くのが。わからんじゃろ。親爺はな、一人でおった。おりゃ一人で行って朝昼晩メシかせ(食わせ)とった。食うていく米もなかった。背広でも何でも自分の持ってるもん質へ入れた。そんな暮らしがわかるか、お前に。あした食う米のないことはなんべんもあった。寝る布団もなかったよ、俺は。敷き布団で毎晩毎晩こごえて寝とったぞ。そげな苦しみがわかるか。家も追い出されかけたぞ。そげな生活がわかるか、お前たちに。三千万円が高過ぎるか。
 うちん親爺は六十九で死んだ。親爺が死んだとき、俺は声をあげて泣いた、一人で。精神病院の保護室で死んだ。保護室で、うちん親爺は。牢屋のごたる部屋で。誰もおらんとこで。しみじみ泣いたよ、俺は。保護室のあの格子戸の中で。親爺と二人で泣いたぞ。そげな苦しみがわかるか。精神病院へ行ったことがあるか、お前は。誰もみとるもんなくして、精神病院の保護室で死んだぞ。うちん親爺は。こげんこたあ誰にも言うたこたあなかったよ。俺、今まで。(しゃくりあげながら)俺も看護夫のはしくれだけん、あんたが具合の悪かぐらいわかるよ。狭心症がどげんとか、高血圧がどげんとかぐらい、わしもわかる。

◆終わりなき水俣病の深い淵
 川本さんの涙ながらの訴えに、さっきまで怒号が乱れ飛んでいた部屋はしーんと静まりかえり、全員が粛然となって聞き入った。彼の訴えはチッソ幹部たちの胸に届いたのだろうか。
 横になった島田社長のまなこは、宙をさまよいうつろに見えた。川本さんの訴えに衝撃をうけたのだろうか、それとも血圧の上昇でぼんやりしていただけなのだろうか。わからない。しかし、その後の経過をみると、訴えが彼らの胸奥にまで届いたようには見えない。チッソは相変わらず企業防衛の一辺倒を続ける。
 自主交渉闘争は、その後に認定された患者や訴訟派の患者も合流してさらに続く。
 未認定患者問題は、この日から40余年たった今でも未解決のままである。認定を求める訴訟で、最高裁は地元の審査会の審査基準を覆して認定したため、熊本・鹿児島の認定審査業務は機能停止状態に陥ったままである。他方、チッソや国を相手どった数次にわたる損害賠償請求訴訟も続いている。
 水俣病事件はいまだ終っていない。わたしのかかわりも、まだしばらく続くことになる。