第四十七回 水俣病と天皇・皇后

三原 浩良

◆水俣病は終わったか
 昭和48年(1973)3月20日、提訴以来3年9ヵ月たった水俣病患者による損害賠償請求訴訟の判決が熊本地裁であった。
 わたしは、病院の待合室のテレビで、その模様を見ていた。胆石症で開腹手術をうけ、予後を福岡市の病院で過ごしていたのである。判決は予想どおり、患者のほぼ全面勝利であった。チッソは控訴せず、判決が確定した。
 被告席から足早に去るチッソ幹部に、浜元フミヨさんは「これですんだっち思うなよ!」とひと声あびせたという。
 裁判は終った。しかし、水俣病が「これで終わった」わけではない。
 一年余にわたりチッソ本社や本社前のテントで座り込みを続けてきた自主交渉派患者に訴訟派の患者も合流し、ふたたびチッソに直接交渉をもとめていく。
 この交渉も長引き、患者たちの本社再占拠はさらに70日に及んだ。本社ビルから撤退したチッソは結局、患者の要求のほとんどをのんで交渉は終結に向かう。チッソは一任派や国に調停をもとめた調停派をふくめ各派の患者団体に「判決並み」の補償を回答せざるをえなかった。
 この年7月、チッソと包括的な協定をむすんだあと、自主交渉派のリーダーの川本輝夫さんは「ひとつの区切りがついたのは事実だが、救われたというにはほど遠い。金であがなえないものがあまりにも多過ぎる。不知火海全域の底には数知れない潜在患者がいる」と語っている。
 この年秋の認定患者は646人だったが、その後も認定申請が相次ぎ、認定審査がいまなお凍結状態のままであることは、先に述べた。水俣病にまだ「終わり」はないのである。

◆「やりたいことがあれば辞めたら」
 前年4月の「告発」に「福岡・告発」について小さな記事が載っている。
「福岡・告発の自主交渉闘争へのかかわりは活発である。東京へもたびたび部隊を送り、水俣のテントにも常時一人はいるようにしている」などとある。
 そうだった。この間、福岡では学生主力の行動グループを東京に送りこみつづけた。その費用もふくらんだが、ほとんどは街頭カンパでまかなえた。患者たちの闘いにはそれほど市民から強い支持が寄せられていたのである。
 ところで、この間にわたしはいわゆる社会部から学芸部に仕事がかわっている。
 ある日、わたしと同僚は上司に呼び出され「君たち、何かほかにやりたいことがあるなら会社を辞めてやるべきじゃないのか」と難詰された。
 わたしの水俣病とのかかわりが、日ごろの仕事に影響したのかどうか。影響ないようつとめたつもりではあるが、なかったと言い切る自信はない。それが、わたしの水俣病とのかかわりを指したものだったかどうかは知らぬが、まもなく福岡から小倉、社会部から学芸部への転勤を内示された。
 社会事象の表層をなでるような社会部の仕事に、いささか懐疑的になっていたところでもあり、学芸への異動に異存はなかった。だが、どこか不透明な不快な感じもぬぐえない異動ではあった。
 転勤後、チッソを占拠した自主交渉闘争時に、わたしは年休をとってチッソ本社の座り込みに参加していたことを話すと、新しい上司は「そりゃ、問題じゃないか」と責められた。しかし、同席する直属上司の「まあ、年休とってやってんだからいいじゃないか」というとりなしで、それきり沙汰やみとなった。ふーん、この会社、結構ふところ深いじゃないか、と見直したことを思いだす。

◆天皇の「言葉」に救われたのか
 話が前後したが、自主交渉闘争終決時に故川本輝夫さんは「救われたというにはほど遠い」と語っていた。水俣病患者にとっての「救い」とは何であろう、そしてその後の水俣では……。
 近着の雑誌「g2」で、ノンフィクション作家の高山文彦氏が「水俣は癒されたか―言葉が持つ救済のちから」と題して、次のようにレポートしている。
 高山氏は、昨年(2013)秋、天皇が水俣を訪れたときの御製「あまたなる人の 患ひのもととなりし 海に向かひて魚放ちけり」を引き、患者代表十人と両陛下との面会が実現した経緯とその実際について詳細につづっている。
 その席には、川本さんの妻ミヤ子さんと息子の愛一郎さんもいた。天皇・皇后は、全員に「お体の具合はいかがですか」などと、いたわる声をかけ、皇后は名札を見て「ああ、川本さんですね」と、「まるで自分たちのことを以前から知っていたかのように、親しみのこもった声で話しかけて」きたという。以下に高山氏の記述を引用する。

…………………………………………………………………………………………………

 ―思いがけない言葉が皇后からかけられたのは、そのときである。
「お父様がなくなられて何年になりますか?」
 父親のことを知っておられるのだろうか、と愛一郎さんはびっくりしたという。
「十四年になります」
「おつらかったでしょうね」
 と、そのように言いたげなようすで皇后は深くうなずき、自分も語り部として父親の苦闘の生涯を伝えていきたいと思っている、と愛一郎さんが言うと、天皇が深くうなずき、皇后は、うんうん、と悲しみを受けとめるように小刻みに顔を上下させ、それから少しのあいだ微笑をひろげた。

…………………………………………………………………………………………………

 愛一郎さんは、皇后とのやりとりを次のように感じた、と筆者に明かしたという。
「ああ、救われた……と思ったんですね。たしかに救われたと、正直そう思いました。父親がやってきたことがやっと認められた。(略)私は思わず涙が出そうになりました。家に帰って母親と二人で親父の位牌が置いてある仏壇に報告しましたよ。両陛下がやっと来てくださったよ、親父のことを知っておられたよ、と」
 川本輝夫さんは、平成11年(1999)に亡くなったが、その九年前、映画「水俣―患者さんとその世界」の監督・土本典昭氏につぎのように語っていた。
「昭和が終わらんでしょう、このままでは。わしゃですな、今年、平成二年ですたい、百間(排水口)に水俣病の慰霊の卒塔婆を立てたばってん、それに〝昭和六五年〟と書いといたですよ。昭和は六四年で終ったか知らんが、〝昭和の水俣病〟は終っとらんぞ、という意味で……」(『水俣病誌』の土本の「あとがき」より。前記高山原稿より孫引き)

 そして高山氏は、こう続けて書く。

…………………………………………………………………………………………………

 ―棄民として扱われてきた人々が、地獄の底にすっと下りてきた蜘蛛の糸にすがるがごとく、一縷の救済の望みを天皇に求めたのは、至極当然のことであったろう。(略)心の底から彼らが求めていたのは金などではなく、「言葉」であった。

…………………………………………………………………………………………………

 しかし、先の闘争終決時に「救われたというにはほど遠い」と語った川本さんは、天皇・皇后の「言葉」にほんとうに「救われた」のであろうか。わたしにはわからない。