第四十八回 学芸記者の五年

三原 浩良

◆「芸能人に会えるから」に絶句
 学芸部には5年在籍した。
 いまでは学芸部より、文化部と称する新聞社のほうが多いようだが、とにかくここは間口が広い。「学問・芸術」か「学術・芸能」か、学芸命名の由来は知らぬが、取材対象がめっぽう広い。
 おもに学芸面、娯楽面、家庭面(当時はそう呼んでいた)を埋めるのがノルマといえばノルマだが、大半の紙面は東京でつくられ、九州・山口をエリアとする西部本社では毎週一回の「自主製作面」をつくればよい。スタッフ5、6人の小さな所帯である。
 社会部のような夜討ち朝駆けの激しい〝特ダネ〟競争はなく、記者クラブもない。自由といえば、このうえなく自由である。
 学芸面では自分で記事を書くこともあるが、大半は依頼原稿、外部の筆者に執筆を依頼する。新参のわたしは主に「娯楽面」担当だった。先任記者はそれぞれ美術、映画、考古学担当の専門記者たちだったが、厳密な区別はなく、互いの仕事の横断・交流も自由自在だった。
 地元で活躍する音楽家やオーケストラ、地元テレビ局の番組づくり、映画の製作現場などが、わたしのおもな取材対象だった。これまで外側から眺めていた世界を、一歩内側から見ることができる。それは新鮮な発見をともなう経験だった。
 70年代後半、なぜか学芸記者志望が一時的に急増したことがある。面接でその理由をたずねると、「芸能人に会えるから」という答えが返ってきて絶句した。
 昭和42年(1967)に2000万台超となったテレビの契約台数は、カラーテレビの普及で一気にテレビ全盛の時代にはいっていった。

◆木村栄文の情熱に脱帽
 カラー化にともなうテレビ全盛時代とは言え、ドラマや芸能番組の隆盛にひきかえ、ドキュメンタリー番組は時間枠もしだいに減り、苦戦していた。
 RKB毎日の木村栄文ディレクターと知り合ったのもそのころだった。『苦海浄土』の世界をドキュメンタリーで撮りたいので、著者の石牟礼道子さんを紹介してほしいというのがきっかけだった。
 この作品は文化庁の芸術祭大賞を受賞し(70年)、以後彼のドキュメンタリーは受賞を重ね、RKB毎日の看板ディレクターになるが、ローカル局でのドキュメンタリー制作がいかに困難な条件下にあるか、つぶさに見ることになった。
「あいつはフィルムを使いすぎる」と経営サイドからの声が聞こえてくる(当時はまだフィルム時代、ビデオではなかった)。予算の制約にくわえ、時間枠がとれない。深夜にサスプロ(スポンサーなし)でしか放映できない。
 そんな悪条件のなかで、彼はまずローカルで15分番組をつくり、それを時間をかけて30分にしあげ、やがて一時間番組に育てて、全国放映に持ち込む。ひとつのテーマを追いかけ、気の遠くなるような作業を繰り返していた。
 やがて彼は、独自にスポンサーをさがして、九州の系列局が参加するドキュメンタリーの時間枠まで確保していった。その執念のような情熱には脱帽するほかなかった。

◆「あたし結婚したの」
 ルーティンの仕事に少々物足りなさを感じはじめたころ、地元ゆかりの芸能分野の人や、コンサートや撮影のために九州にやってくる芸能人のインタビュー・コラムをはじめ、四年ほど続けた。
 メジャー・デビュー前の武田鉄矢や井上陽水などのフォーク歌手、ピアニストの中村紘子、高倉健、藤純子などの大物俳優、芝居の小沢昭一、落語の柳家小さん、映画監督では深作欣二などが強く印象に残っている。
 京都の東映撮影所で二度ばかり会った高倉健は、なるほど「健サン」と愛称されるような気さくな人柄で、九州からやってきた記者にはことのほかやさしかった。酒をたしなまぬ彼は喫茶店をはしごしながら、深夜まであきずに映画について情熱的に語り続けた。
 やはり東映京都の「仁義なき戦い」シリーズの大ヒットで、波に乗っていた深作欣二監督を博多で取材した。取材が終って、「呑みに行こう」と誘われた。敬愛する監督と呑めるなんて願ってもないこと。さてどこで呑んだか、何を話したか思い出せないが、酔余のあげく「次、ストリップに行こう!」と言いだした。
 中洲の川沿いのストリップ劇場に繰り込んだ。「キネマ旬報」の白井佳夫・編集長もいっしょだった。
 監督は、ここでも演出家だった。花道? に陣取り、かけ声をかけ、手をうち鳴らし、踊り子たちをみるみるノセてしまった。場内の雰囲気ががらりとかわり、盛りあがる。「ハハーン、さすが演出家」と感心したものだ。
 劇場を出ると、監督はいずこへとなく消えていき、わたしと白井さんは深夜喫茶で酔いをさましてから別れた。
 ピアニストの中村紘子さんとは、彼女行きつけの博多のおでん屋で二、三度呑んだ。二度目だったか、いきなり「わたし結婚したの。彼はいまこれを書いている。挿絵はわたし」と、バッグから「中央公論」をとりだしてみせた。小説の作者名に庄司薫とあった。
 思わず「えッ」と声をあげてしまった。学生時代に福田章二の本名で発表した『喪失』(中央公論新人賞)に強い印象を受けた記憶があり、そのことを口にしたので、彼女も思わず洩らしたのか。のちに「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を受賞した庄司薫と目の前の中村紘子が結婚! いまなら週刊誌が飛びつきそうなゴシップだが、行儀のよい学芸記者はそんなことはしない。
 学芸記者時代に出会った印象深い人たちは、ほかにもがたくさんいたが、これくらいにしておく。

◆どこかおかしい「言葉狩り」
 当たり前のことだが、仕事のなかでは楽しくないことも起きる。
 石牟礼道子さんの原稿を東京に送ったときのことだ。なかに何ヵ所か「部落」という言葉が出てくる。東京本社のデスクは「部落」をすべて「集落」に書き換えよ、という。
「部落」をすべて「被差別部落」を指すものだと勘違いして、差別用語だと言うのである。何度かのやりとりのなかで、彼は「君は知らんだろうが、やられたら大変だから」とホンネを吐いた。勘違いではない。そう誤解されて「糾弾」されることを恐れてのことであったろう。
 しかし、ここは譲ることはできない。用語の自主規制、実は見当はずれの「言葉狩り」である。新聞がそれをやっちゃいけない。現に使われ、生きている「言葉」をそんな理由で消していいはずがない。
 すったもんだのあげく、「書き換えない限り使えない」と談判決裂、けっきょく西部本社の紙面だけで使うことになった。石牟礼さんには申し訳ないことになったが、後味のわるい決着であった。
 後年、用字用語委員会のメンバーになって、「当事者が不快に感じる言葉は言い換える」が主流になっていることを知り、愕然とした。悪意からする差別語の放逐は理解できるが、世に不快な事象はあまたある。不快な事象を言葉のオブラートでくるんでも、その事象が解消されるわけではない。
 それどころか、「百姓」を農民や農業従事者に、「土工」を土木労務者と言い換えることで、何かが変わるのか。
 行き過ぎたメディアの「言葉狩り」に抗議して断筆した作家も出るほど、メディアの過剰な自己規制は根本のところで間違っている。

◆出郷者は「離郷の思想」を深めよ
 さて、その依頼原稿だが、わたしは著名な執筆者だけでなく、できるだけ無名の人にも書いてもらうよう心がけていた。
 そのなかの一人に前山光則さんがいる。彼は昭和22年(1947)生まれ、6年の東京暮らしから、郷里の人吉市に帰省したばかりの28歳だった。
 彼から届いた原稿のタイトルは「応答せよ! 戦後の長男たち」、副題に「帰郷した悲哀の次男坊より」とある。
 彼より少し年長の「長男世代」は、「古いものに否定の視線を投げ、真新しいものに歓迎の拍手を送る」擬制の民主主義世代ではないのか。「何が彼らをそんな楽天的な世代に仕立てあげたのか」と問いかけ、他郷に去った者たちは「離郷の思想」を深めるべし、と結ばれていた。
 最近になって知ったことだが、昭和50年(1975)5月の毎日新聞に掲載されたこの原稿は、三年後『わが世代―昭和二十二年生まれ』(河出書房新社)に収録され、彼は長文のコメントで、「戦後の長男世代」をさらに厳密に定義している。
「戦時中に生を受け、戦後の解放と混乱の中で育った世代」であり、「彼等がものごころつくのは戦争が終わってからで、生活は戦後の窮乏の中で最低線にあったものの、精神世界はアメリカ伝来のデモクラシーやら新生活運動で輝いていたのではないか」「窮乏生活を忘れるくらい新しくて自由な戦後の擬似的解放感を味わい、「個」性を主張することのできた、できなくてもそうすることが正義であると信ずることのできた世代に違いない」と。
「世代論」が盛んに論じられたころであった。
 わたしは彼よりちょうど10歳年上、まさしく「戦後の長男世代」であり、出郷者でもあったから、この指摘をわがことと受けとめた。
「出郷者にだって悲哀はあるよ」と反発したい気もあるのだが、なにより後続世代から「擬制の民主主義世代」「擬似的解放感」と断じられたのはショックであった。
 出郷者の「悲哀」の裏側に張りついたままの、わがいささか複雑なセンチメントはいまも変わらず、彼の求める「離郷の思想」はさっぱり深まらぬままである。