第五十二回 もの苦おしき長崎の夏

三原 浩良

◆待望の地方勤務、長崎へ
 昭和56年(1981)2月、上司から異動の内示を受けた。任地は長崎、支局長をやれという。
 久しぶりの地方勤務、地方志向のわたしにとっては願ってもない異動。机にしばられていた日々から、やっと解放されて現場復帰がかなうことになった。わくわくしながら特急「かもめ」に乗り込んだのは、この年の春だった。
 支局長はその地域では新聞社の顔だから、さまざまな渉外業務もついてくる。赴任前に苦手な役員から「営業にも十分気を配るように」と説示された。うーん、記者歴20年にして、そっちのほうにはあまり自信がない。
 なるほど、管理や後進の指導も仕事のうちだろうが、わたしはまずは記者、現場を歩いて書いてなんぼだろうと思って赴任した。
 しかし、支局長に持ち場はない、強いて言えばオールラウンド・プレーヤー。とはいえ記者の領域をおかすわけにはいかない。
 さいわい毎週一回、支局長に義務づけられる地方版のコラムがある。長崎の場合は「西海評論」というタイトルで続いている。ここを手がかりに始めることにした。

◆風化する被爆体験の風景
 やがて夏、まもなく原爆忌が近づいてくる。長崎の街にはどことなく重苦しい空気がただよいはじめる。記者たちは原爆忌の企画記事のために走りまわっている。

  今年(このとし)も又ものぐるほしくなりぬらむ 八月の空夏雲の立つ

 被爆者の救援にあたった医師・秋月辰一郎さんの一首。秋月さんはこの歌につづけて「これから何年たっても、私は命のあるかぎり、八月の空を見るたびに、もの狂おしくなる自分の心をどうすることもできないだろう」と書いている(『死の同心円』)。
 さらに続けてこうも書く。
「原子爆弾について、私は年ごとに遠慮がちに話さねばならなくなっている自分を感じる。私だけではない。広島の人も、長崎の人も、一片の歴史的事実として忘却され、消失されてゆく原爆の被害について、しだいに口が重くなり、ともすれば黙しがちになっている」
 この文章が書かれたのは昭和40年代半ば、それから半世紀近い時間が流れた。鬼籍にはいった被爆者のほうが圧倒的に多くなった。
 はじめて長崎の原爆祈念式典に参列した。
 この年、総理大臣はやってこなかった。総理の挨拶を代読した厚生大臣は「長崎市民」と言うべきところをうっかり自分の選挙区の「長岡市民」と読んでしまった。新潟3区選出の代議士だった。悪気はないのだろうが、おそろしく緊張感を欠いたおざなりの挨拶に会場には一瞬しらじらしい空気が流れた。
「式典後に三々五々流れる献花の光景がいいよ」と、地元放送局のディレクターが教えてくれた。たしかにリハーサルずみの儀式よりも、こちらのほうが心に響く。

◆「当直日誌」のなかの父親像
「もの苦おしくなる」と言えば、そんな街の空気に感応したわけでもあるまいが、支局の「当直日誌」を拾い読みしていて、胸をつかれる文章に出会った。
 大賀和男記者が、この夏、七十八歳で他界した父君のことを書いている。
「好きな酒を飲むだけ飲んだのだからもう十分だったのに違いない。悔いが残るとすれば、中国大陸で自分の手を中国人の血で汚したことだろう。だが、おやじよ、もういいよ。ひつぎのふたを開けると、おやじは悲しみの涙を流しているかのようにまつげをぬらしていた」
 彼の父親は満州事変、日中戦争と二度応召、延べ5年間兵卒として大陸を転戦したという。復員してからは人嫌いになり、彼の結婚式にさえ出なかったという。
 そして浴びるほど酒を飲み、酔えば「俺だけはやっとらんぞ。部隊長がやれと言ったばってん、俺はやらんかったぞ」「日本軍はむごかことばやっとる」とわめいたり、つぶやいていたという。
「だが、おやじは戦争を嫌う六人の子供を育てた。『おやじ、いい反面教師だったぜ』と語りかけてやりたい」と大賀君は結んでいた。
 わたしは彼の文章を「西海評論」に抄出して転載した。
 大賀君は、後年、父親になりかわってか『日本軍は中国で何をしたか』という一書を編むことになる。
 長崎は、いつもあの戦争を思い出させるところだった。