第五十四回 長崎大水害に遭遇した

三原 浩良

◆天が裂けたような豪雨
 テレビが映し出す広島の土砂災害の惨状を見て、32年前に遭遇した長崎大水害の模様が思いだされる。299人が犠牲となったこの水害は、30余年におよぶ記者生活のなかでも超弩級の〝事件〟だった。
 昭和57年(1928)夏、この年の梅雨明けはおそかった。7月なかばから連日のように「大雨洪水警報」が発令されていたため、市民は特別な備えもせず、普段どおりの生活をしていた。
 7月23日午後4時50分、この日も「大雨洪水警報」が発令された。雨はパラパラと落ちはじめていたが、例によって大したことはあるまい。みんなそう思っていた。わたしも出張してきた先輩と食事の約束をして待機していた。
 県や市にしてもご同様、警報発令で待機を義務づけられる防災担当者を残して、みんな早々と引きあげていった。
 午後6時過ぎ、雨は強風、雷鳴をともなってますます激しさを増した。支局玄関のドアは閉まっているのだが、隙間から吹き込む雨がみるみる内側に数センチもたまり、かきだせない。段ボール箱をかき集めて土のうがわりに積みあげる。
 そのうち勤め帰りの人たちが支局に駆け込んで避難してくる。一時の雨宿りのつもりだったのだろうが、雨脚はますます激しくなるばかりである。
 あの激しい雨をどう形容すればいいのだろう。豪雨を表現するのに「バケツや盥をひっくり返したような」という常套句があるが、あれではとても足りない。プールの水を返したような、いやまさしく天が裂けたとしか思えぬほどの豪雨だった。
 1メートル先が見えない。直径1センチはあろうかという雨粒にたたかれると、まるでヒョウや霰にたたかれたほどの痛みである。それほど雨の勢いもすさまじかった。
 この日の降水量448ミリ、それがほぼ3時間のあいだに集中して降った。「四百年に一度」の豪雨だった(長崎大学の報告書)。

◆「災害は一報より大きくなる」
 6時半「浦上方面で崖崩れ、4人生き埋め」。これが県警からの第一報だった。すかさず記者がドライバーとラジオカーで現場に向かう。ところが、いくら待っても連絡がない。「応答せよ、応答せよ」と無線で呼びかけるが無反応。
 この時代、まだ携帯電話はない。やっとポケットベルが普及しはじめたころである。
「道路が冠水し、とても現場には行けない」と、公衆電話から連絡が入ったのは一時間後。公衆電話ボックスも浸水がひどく、足元の水位がどんどん上がってくるという。
「取材中止、引きあげてくれ」と伝えたが、彼らが高台の裏道を迂回して帰ってきたのはさらに一時間後だった。
 通信手段は新聞や放送にとっては命綱である。その無線がなぜ通じないのか。
 それまで支局屋上に立てていた無線アンテナを、送受信エリアを広げるために長崎港はさんで対岸の稲佐山山頂に建てかえたばかりだった。アンテナと支局のあいだは有線で結んでいる。後日わかったことだが、このNTTのケーブルが早々と水没し、無線通話はできなくなった。取材、連絡の手足をもがれてしまったのである。
 そのうち固定電話もかかりにくくなってきた。目と鼻の先にある県警本部詰めの記者とも連絡がとれない。
「奥山で土石流、20人不明」「鳴滝町でがけ崩れ、不明者多数の模様」こんな未確認情報を県警詰めの記者は走ってもたらすほかない。外に出ればプールに飛び込んだようなもの、彼はメモ帳をにぎりしめてずぶ濡れになりながら何度も往復した。
 よく言われることだが、「事件の一報はしぼむことが多いが、災害は一報より大きくなる」。事態はそのとおりに進んでいった。

◆警察も消防も現場に行けない!
 昭和30年代の終わりごろ、熊本で毎年のように水害を取材した。まだ行政の防災対策が行き届かず、山が崩れ、川が氾濫して命や家屋が呑みこまれることも多かった。
 腰まで水につかりながら徒歩で現場に近づいたこともある。首まで水につかって写真を撮った同僚もいた。いま考えれば危険きわまりないことを平気でやっていた。
 一報ですぐさま現場に駆けつけると、その後さらに大きな災害が発生することもしばしばだった。そんな経験もあったので、取材には慎重になった。
 全体の状況がさっぱりつかめない。電話はほとんどかからなくなった。雨は降り続き、断続的に停電する暗闇のなかでの取材になる。あわてて現場に向かえば、記者が被災するおそれもある。うかつに動けない。「水が引くまでは車の取材中止」「徒歩取材はすべて二人ひと組のペアで」と決めて徹底した。
「3人行方不明の模様」「鉄砲水で5戸が流されたらしい」と、被災状況の速報が次々にもたらされるが、いずれも未確認情報。警察も消防も危険で現場に近づけないのである。
 締め切り時間がせまってくる。「正確な被災人数を送れ」「これでは見出しが立たない」と本社から矢の催促だが、未確認情報を勝手に足し算して垂れ流すわけにはいかぬ。「いい加減にしてくれ」と怒鳴りたくなる。
「死者・行方不明21人」が、県警で確認されたのは午後9時ごろである。このあたりの事情は今回の広島の土砂災害でもまったく同じようだった。
 その30分後、となりの諫早全市に避難命令が発令された。25年前(昭和32年)、800人超の犠牲者が出た「諫早大水害」が頭をよぎる。

◆「見殺しですか!」
 後日、消防の119番通報の録音テープを入手した。
「お母さん、やっとつながったよ」と子供らしい声が母親に受話器をわたす。つながりにくい電話を子供にダイヤルさせ続けていたのであろう。かわった母親の悲痛な声。
「動けない年寄りが二人いるんです。助けに来てください」
「救急隊は全部出払ってすぐには行けません。何とか自力で安全なところに避難してください」
 電話が不通になり、街までかけ降りての切迫した絶叫のような通報。
「すぐ来てください。家が何軒も流され、押しつぶされています」
「道路が壊れて行けません。全市が非常事態です。なんとか自力で逃げてください」
 こちらもパニック気味に金切り声をはりあげる。
「それじゃ、見殺しということですか!」
「見殺しと言われても、こちらも……」
 110番も119番もほぼパンク状態だった。救助をもとめられてもパトカーも救急車も出払ってしまい、出動した車は目的地に着けずに難渋していた。
「どこもかしこも人が流されているんですよ。お宅だけじゃないんです。こちらもパニック状態なんです」
 消防局員もパニックになると、こんな応答をしてしまう。
 長崎市の消防団員の殉職者4人、協力者二人も犠牲になった。
 この間にも被害はどんどん広がり、深刻になっていく。出動した機動隊は道路流出、寸断で前進できず、目の前で国道が車といっしょに崖下に流され、消えてゆく。
 絶叫するような警察無線のパトカーへの指令を傍受していらだつばかりだった(当時はまだアナログ通信で警察無線を傍受できた)。
「犠牲者は300人前後になるのではないか」
 わたしは押し寄せる未確認情報を整理しながら、思わずつぶやいていた。
 ままならぬ取材、送稿のうちに午前2時、朝刊最終版の締め切り時間が過ぎる。つけっ放しのテレビもラジオも家族を気遣う安否情報ばかりで、被災地の模様はさっぱり伝えない。やはり取材できないのだろう。
 
 
 

 午前2時時点で警察が確認した人的被害は、死者26人、行方不明79人、生埋め183人。わたしの予測に近づいてしまった。
(次回に続く)