第五十五回 長崎大水害Ⅱ

三原 浩良

◆〝幻の手書き号外〟
「四百年に一度」という局地的豪雨に襲われ、一夜に299人が水や土砂にのまれてしまった長崎大水害―。32年たった今でもありありと思いだす。
 電気、ガス、水道、電話などのライフラインは全市でほとんどダウンした。
 断続的な停電のなか、ロウソクの灯りをたよりに悲報を次々に送稿する作業は、鬱々たるものだった。徹夜の作業を終えた支局員は、みな呆然と言葉すくなになっていた。
 午前五時、夜が白々と明けはじめた。「とにかく現場へ」。小降りになった雨のなか、手分けして徒歩で行ける被災地に向かう。
 全員が出はらった支局にひとりポツンと居残って考える。「朝刊は届くだろうか」。福岡や隣県・佐賀、熊本などから長崎に向かう応援の記者たちは、いずれも道路網が寸断されて難渋している。おそらく新聞は届くまい。
 疲れきった頭に、ふとむかし読んだ熊本大水害(昭和28年)の「記録集」が浮かんだ。2000人超が犠牲になった西日本大水害、なかでも熊本の犠牲者は500人を超え、熊本市街は土砂に埋まり、通信途絶、道路陥没、文字どおり何日も〝陸の孤島〟と化した。
 苦境のなかで西日本新聞の記者たちは、ガリ版刷りの新聞を発行し続けたという。
 すぐさまA3の西洋紙に題字を切り貼りし、原稿を書きはじめる。手書きの号外発行である。水没をまぬかれた近くの広告社でありったけのコピー用紙1500枚を使い果たしたころ、夜があけた。
 ちょうどそのころ、北九州空港では本社のヘリコプターがエンジンを始動させていた。24日午前4時45分、ヘリは激しい雨、垂れこめる厚い雲に向かって離陸した。
 しかし、飛びたったものの視界は最悪で高度がとれない。足元を波が洗う海岸線づたいに低空で這うように進む。後日、パイロットは「車にどんどん追い越されて行くんだよ」と嘆いていた。そんな速度でしか飛べなかった。
 午前9時すぎ、号外と記者、カメラマンを乗せたヘリは、ふだんの二倍以上の時間をかけてやっと長崎に緊急着陸した。
 かくして、わたしの手書きの号外は〝幻の号外〟となった。

◆被災者はどんな情報を求めているのか
 翌日午後になって応援の取材陣が続々と長崎にはいってきた。と言っても、前夜出発組はとなりの諫早市から先に進めず、夜明けとともに陸路をあきらめて漁船をチャーターしたり、車を捨てて徒歩で山越えするなど、泥んこになってやってきた。おかげで人手がそろい、取材は軌道に乗りはじめた。
 しかし、30人近い応援組の宿舎は手配できたものの、ライフラインの途絶で食事なし、風呂なし。さあ、困った。食事の確保をどうするか。むろん出前をする店なんかあろうはずがない。
 電気は復旧したが、水道は濁り水。さいわい屋上のタンクにはまだきれいな水が残っていた。しかし、ガスの復旧は見込めない。支局の3階は支局長住宅になっており、夏休みで中高の娘ふたりがいた。かみさんと娘に〝にわか給食係〟の辞令をだし、電気コンロ、簡易ガスコンロで煮炊きをはじめる。おそろしく手間がかかる。
 事務補助の矢口あけみ君が、自転車で走りまわってなんとか食材をかき集めてくる。おにぎりとみそ汁、沢庵くらいの食事しかつくれないが、なんとか空腹はしのげる。福岡の友人から大量の簡易ガスボンベの差し入れが届き、佐世保支局からは野菜が送られてきた。
 しかし、被災地では停電、断水、ガス停止が続いている。ライフライン途絶のなかで、みんなどう暮らしているのだろう。
 被災状況の報道も大事だが、被災者や市民はどんな情報を求めているのだろうか。わが身に、あるいは家族の身におきかえてみる。
「よし、地方版は暮らしに役立つ情報一本に絞ろう」。「きのうはこうだった」ではなく、「今日はこうなる」で紙面をつくろう。地方版担当にベテラン記者ふたりを割くのはつらいが、若い記者では暮らし向きのことはわかるまい。
 こうして翌日から「災害生活情報」が地方版を埋め尽くした。まず、水道、電気、ガス、電話、道路、食料、病気など緊急性の高いものから、復旧、開通の見通しはもとより、デパート、スーパーも休業、閉店が多いので、「A店に乾パン、缶詰あり」「B店にはソーセージと卵あり」「青果、鮮魚もきょうから一部店頭に」とキメ細かく追った。
「災害時の税の減免措置、低利融資制度を教えて」など読者からの要望に応えてさっそくそんな小特集も組んだ。やがてテレビや他紙も類似の情報提供を始めたが、そのころこちらは「風呂に入りたい」という声にこたえて営業中のサウナ風呂や銭湯にまで取材をひろげていた。
「生活情報」はなにより、自分たちにも必要な情報だった。災害時のこうした情報提供はその後、他の災害時に参考にされたと聞いて、少しは役にたったか、と思う。

◆そのとき、トップは
 そのとき、県や市の行政のトップはどう動いたのだろうか。
 高田勇・長崎県知事はホノルルにいた。ブラジルでの県人会に出席しての帰途。「死者26人」という早朝の電話でたたき起こされ、折り返し県庁に電話を入れると、今度は「死者41人」。
 驚いてすぐに帰途につく。成田からの機内では「知事辞任」まで思いつめたという。
 後日、「なぜ」と尋ねると、「だって都市でこんなに多数の死者が出たのは伊勢湾台風以来ですからね」と言う。
 副知事は東京出張中、出納長も雲仙出張、三役不在のまま居残っていた災害担当者たちが対応に追われた。
 本島等・長崎市長も県の出納長といっしょに同じ雲仙の会議に出張していたはずだったが、なぜか長崎市内にいた。
「雲仙を早めに引きあげて市内で晩飯を食っていたら水が出て動けなくなった。水が引いてから帰った」と、言っていたが、後日、週刊誌にスキャンダルふうにすっぱ抜かれる。なじみの小料理店で孤立し、ここで一夜を明かしたというのである。
 この週刊誌発売日の早朝、上京中の本島市長の電話でたたき起こされた。
「オレが週刊誌を買い占めたなんて言ってる人がいるそうだが、オレはそんなことはしとらんよ」
 しかし、この週刊誌はなぜか長崎市内の書店には一冊も並んでいなかった。
 この小料理店にはわたしも何度か足を運んだことがあった。銅座の飲食街は水没したが、ここは少し高みにあるので、気づかなかったのだろう。
 しかし、解せないのは、本島市長は水が引いたあと、なぜ市役所を素通りして、市長公舎に引きあげてしまったのだろう。「電話で連絡をとりながら指揮をとった」とおっしゃるのだが、ホント? 電話はおそろしくかかりにくくなっていた。携帯などまだない時代である。

◆弔辞のなかのさりげない「ウソ」
 1ヵ月後、長崎市の合同葬があった。
「市としては、避難命令を出し、テレビ、ラジオ等に連絡し、避難勧告の車を出し……」
 本島市長は長い弔辞のなかに、さりげなくこんな一節をはさみこんでいた。
 しかし、後日の長崎行政監察局の「調査報告書」は、「市災害対策本部は、本部長(市長)の指示による避難勧告または指示を行っていない」と書いている。
 長崎大学の「調査報告書」も同様「市対策本部からは市民に対して一度も避難の呼びかけはなされなかった」と記していた。
 いくら多忙のなかにあっても、メディアがそんな重要な「連絡」を受けて、忘れるはずがない。テレビ、ラジオはすかさず速報したはずである。
 あの雷鳴とどろき、たたきつけるような豪雨のなかで、「避難勧告」や「避難命令」が出されても、市民の耳に届いたとは思えないが、それにしてもひどい責任逃れの言い草ではないか。
 伊豆大島の土石流災害でも、今回の広島の土砂災害でも、行政の「避難」指示の遅れが問題視されている。だが、本島市長が「弔辞」にさりげなく挿入していたこの「ウソ」は、後日、先の「調査報告書」が出るまで見過ごされ、問題視されることはなかった。

◆「天災」のあとに「人災」が
 水害直後から、わたしは「裏付けなしに軽々に人災などと書くなよ」と、くどいほど若い記者たちに言っていた。
 実態調査も十分進まぬうちから、まるでこの坂の街に住むのが悪いと言わんばかりの一部の報道を苦々しく思っていた。
 乱開発―行政の怠慢―人災という、よく見かけるパターンの発想からする、たしかな裏付けのない報道、論評である。
 あの信じられない豪雨を経験しては、とても軽々に人災などとは言えないと思っていた。一日の降水量448ミリ。「百年に一度の雨だ」とささやかれていたが、のちに出た長崎大学の報告書によれば「四百年に一度」の豪雨だったという。それがわずか3時間に集中して降ったのである。
 これを天災といわずして、何を天災と言うのだろう。そのせいか、こんな大災害なのに行政に被害補償を求める訴訟は一件も起きなかった。
 しかし、「人災」はほどなく遅れてやってきた。