第五十六回 長崎大水害Ⅲ

三原 浩良

◆「水害遺児を助けよ」と呼びかけたが
 1ヵ月たったころだった。「気の毒な友達がいる」と娘に教えられた。水害で父親を失った大学生が、中途退学して弟妹のために働きに出ようかと迷っているという。
 またこんな話も耳にした。両親を失った大学生と高校生兄弟の中途退学を避けようと、級友たちが彼らの学資かせぎのためにアルバイトをはじめたという。
 うかつにもそこまで気がまわらなかった。調べてみると、水害で母子家庭になった世帯15、父子家庭になった世帯14、子供だけになった世帯8、それらの家庭の20歳未満の子供たちは64人にのぼることがわかった。
 彼らのなかには、この夏休み中にも進学をあきらめるかどうかの決断を迫られる子供たちもいるにちがいない。何とかできないか。
「水害遺児を助けよう」とコラムで呼びかけた。県PТA連合会の幹部や県会議員諸氏などから相次いで賛同の声が寄せられた。知事、市長、教育長にも「一刻も早く遺児のための育英・奨学金制度をつくるべきだ」と、訴えた。
「ぜひやりましょう。すぐに検討させます」。どこでも同じ返事だったが、なぜかこの育英・奨学金制度がなかなか動きださない。このままでは手遅れになってしまう、と気が気ではない。
 実は予感はあった。
 水害直後から長崎県と長崎市の足並みがなかなかそろわない。ことごとに角突き合わせるように見えて仕方がない。
「被災地の伝染病予防を早く」と県が促すが、市は「とても手がまわらぬ」「費用負担は?」などと渋る。しびれをきらした県は「もう市は相手にするな。県でやろう」と、独自に被災地の消毒作業にとりかかった。

◆長崎市は「何をやっとるのか」
 長崎大水害の模様は海外にまで広く伝わり、全国から続々と義援金や救援物資が届いた。義援金の総額およそ28億円、予想をはるかに超える浄財がまたたく間に寄せられた。その一部を割いて早く遺児のための奨学金制度をと訴えるのだが、もたもたしていっこうに実現の様子がない。
 この多額の善意を、素早く、困っている人たちに、的確に届けるには知恵も工夫もいる。ところが、お役所というところは規則や前例にこだわって、経験のないこんな事態をうまくさばくことができない。その配分方法を決められないのである。
 モタモタの原因は、県と市に意見の相違があり、調整がつかない。県は「すべての義援金をプールして、災害救助法適用市町に被災程度に応じて配分、その先の使途は各自治体に任せよう」という。
 ところが長崎市は「義援金のなかには使途を指定したものが3億円余りある。これを全体でプールするわけにはいかない。公共施設の復旧や救援物資の輸送にかかった費用にもあてたい、奨学金制度は市独自でつくりたい」と主張してまとまらない。
 わたしは激怒した。「何をやっとるのか」といささか品に欠ける見出しのコラムで、「これはウチがもらったものという長崎市の言い分には承服しかねる。自分の取り分を増やそうとする魂胆ではないか、と勘繰られかねない子供っぽい主張ではないか」と再考をうながした。

◆「天災」のあとの「人災」
 水害から2ヵ月後、県や日赤はとうとうシビレをきらし、「長崎市は勝手におやりなさい」と、自分たちのつくった基準に基づいて配分をはじめた。
 毎日新聞社の社会事業団を通じて寄せられた約3200万円の義援金は、県に1000万円を、ついで同額を長崎市に、さらに1200万円を県に届けた。この配分比に特段の意味があったわけではない。一人ひとりの寄付者にはそれぞれの思いがあったかもしれないが、県や市に寄託すればその趣旨をもっともいかした使い方をしてくれるだろうと考えただけである。
 取り残された長崎市は、独自の配分委員会をつくってこれから検討をはじめるという。義援金を届けたわたしとしてはなんとも後味の悪い、あきれた結末になってしまった。
 水害遺児の奨学金制度が長崎市にやっとできたのは、暮れも押しつまった12月27日。進学を迷い、中途退学まで思いつめた子供たちに間にあったかどうか、こころもとない結末であった。
 長崎市は義援金の一部を、用途もあまりはっきりさせぬまま末端の自治会組織に配分した。バラまいたと言われても仕方のないやりかたである。「それはおかしい」と市民から返還請求訴訟まで起こされることになった。
 これはわたしの下司の勘繰りかもしれないが、翌年4月には市長選挙がひかえていた。そうとでも考えなければ理解に苦しむ、何とも拙劣な長崎市の対応であった。
 大水害は天災であったかもしれないが、出しもしない「避難命令」を出したと弔辞にしのびこませた市長のウソと、義援金の配分をめぐる長崎市の迷走は「人災」と言ってよかろうと思う。