第五十九回 地平に沈む「赤い夕陽」がみたかった

三原 浩良

◆大興安嶺、地平線から昇る太陽
「一望さえぎるものなき地平線、そこに沈む夕日を一度目にしたい」
 そんな軽い気持ちで、昭和60年(1985)初夏、旧満州をめぐる一週間ほどの旅に出た。
 旅行社と航空会社が旧満州のあたらしい観光ルートをさぐりたいと企画したツアーで、両社の支店長にさそわれ、一行160人と長崎空港から旅立った。
 上海―北京ルートを経由して、まずハルビンに着いた。黒竜江省の省都・ハルビンは人口250万余(当時)の大都市だったが、急激な人口増で街はやや無秩序、アナーキーなエネルギーにあふれる街という印象だった。
 旅装を解いた天鵞(スワン)ホテルは14階建ての堂々たる構えだった。同行した旧知の山野道雄さん(元気象台勤務)は、ハルビンに7年余住んでいたそうで、「このホテルのあたりが日本陸軍の飛行場跡。ノモンハン事件の折りにはここから重爆撃機が毎日飛びたち、近くの中学校の屋上には高射機関銃がすえられていた」という。
 一行はここから十班にわかれ、それぞれの目的地に向かう。わたしをふくむ11人のノモンハン組は翌日の夜行列車でソ満国境の街、満州里に向かう。
 午前4時、寝台車の窓が朝日で朱にそまり、目がさめる。地平線から昇る太陽をはじめてみた。やがて機関車が重連になり、あえぎはじめる。標高千メートル超の大興安嶺、どこまでも続く大草原を太陽に追われるようにひたすら西北に向かってひた走る。
 前夜10時前にハルビン駅を出発しておよそ22時間かかって、内モンゴル自治区の終点、満州里に着いた。このレールはシベリア鉄道に連結されており、この先、鉄路はひたすら東北に向かう。

◆懐かしき薄暮の満州里
 満州里は人口3万余、北緯50度の厳寒の国境の街である。
「ここは雪国 満州里……」とディック・ミネが昭和16年(1941)に歌ったあの「満州里小唄」の街、記憶に残るのは森繁の歌、のちに加藤登紀子などもカバーしているらしい。
 街をぶらぶらする。夜8時を過ぎても、薄暮のなかでホテルの周辺では住宅の建設工事をやっている。整地もレンガ積みもすべて人力、レンガを一枚一枚積み重ねていく工法で、重機や大型機械の姿はなかった。
 日本のヨイトマケのようなかけ声をかけながら早朝から夜遅くまで続く。防寒のためだろう、民家はいずれも中地下式二重窓の構造になっている。
 ライラックの可憐な花がほんのり浮かぶ薄暮の街を、若い人たちが自転車で三々五々宿舎のホテルに隣接するダンスホールに向かう。
 日本からの観光客ははじめてなのか、ここで歓迎のダンスパーティーが開かれるらしい。
 会場に入って驚いた。200人を超す人たちがつめかけ、もう小学生たちがディスコミュージックにのって身をくねらせて踊っている。中国のディスコ・ブームは外電で承知はしていたが、辺境の地という思い込みがあって、思わずわが目を疑った。
 やがて少々おなかの出っ張った張華春・満州里市長サンが悠然とワルツのステップを踏みだすと、つれてみんなも踊りだす。「これからの中国じゃあ、ダンスができないヤツは出世できんな」と誰かが皮肉を飛ばす。
 昼間のぞいた街の書店では、「上海服装百種」というスタイルブックがよく売れると言っていたが、なるほど若い女性たちは、素朴ながら清楚な感じのおしゃれな服装で着飾っている。
 われらの一行も次々にお嬢さんたちにさそわれて踊りの輪の中へ。怪しげなチークダンスしかできぬ小生、いくらなんでもそれでは、と丁重にお断りした。かわりにむかし中国から帰国した友人におそわった「草原の恋歌」を、あやしげな中国語で歌ったが、やはりさっぱり通じなかった。
 フィナーレは中国で大流行中の「北国の春」の大合唱。この曲は、列車の長旅のあいだもずっと流れていた。
「こんな歓迎なんて、思いもよらなかった」と、70に手の届こうかという面々は夜ふけまで興奮さめやらぬ様子である。
 そうだったなあ。わたしの育った日本のいなかでも、戦後間もないころはこんな雰囲気だった。忘れかけていたあのころを思い出しながら、強い印象を刻まれた一夜だった。
 のちに訪れた北京にはあまり好印象を受けなかった。やはり中国も日本も、大都市より田舎がいい。
 あの満州里、いまはどうなっているのだろう、と時々思い起こす。