第六十一回 ハイラルの残留留孤児

三原 浩良

◆許されなかった集団自決慰霊の碑
「満州の夕日が見たい」などと、気軽にでかけた中国ツアーだったが、やはりあの戦争の傷跡を避けて通ることはできなかった。
 一行のなかの和歌山県御坊市の玉置修吾郎・市長と長崎県生月町の藤永正雄さんは、この旅に身の丈ほどの白木の柱を持参していた。
 柱には、「一九四五年八月十七日 江口副県長以下日本人官吏家族四十八名自決の地」と書かれるはずだった。
 ハルビン郊外、東興県公署に勤める邦人官吏と家族たちは、敗戦とともに北満になだれ込んできたソ連軍の侵攻におびえ、敵襲によってはずかしめを受けるまえに服毒自決をとげることを誓いあっていたという。
 ところが、一発の銃声を敵襲と勘違いして「直ちに服毒せよ」と命令が出され、全員集団自決した。極限状況のなかでのいたましい悲劇であった。
 玉置さんと藤永さんは出征していたため命ながらえ、帰国できたが、家族をうしなった。ふたりはかつての同僚や家族の慰霊・鎮魂のためにツアーに参加し、いまは学校になっていた東興県公署をさがしあて、木柱の建立を願い出たが、中国公安当局に許可されず、無念、傷心の旅となってしまった。

◆とり残された人たち
 旅の終わり近く、ハイラルのホテルに突然、当地在住の須田初枝さん(当時55歳)の訪問を受けた。日本人ツアー一行のなかに新聞記者、つまりわたしがまじっていると聞きつけての訪問だった。
「ここハイラルに残留孤児の男性がいます。何とかして日本の親族を探したいので、協力してほしい」と相談された。
 聞けば、須田さんは昭和19年(1944)4月、家族と東京開拓団の一員として満州に入植したが、14歳で敗戦をむかえた。
「街の日本人はみんな逃げてしまい、逃げおくれたわたしは玉砕を覚悟しました。もし、父が生きていれば、わたしを殺していたでしょうね」
 とり残された須田さんは蒙古人と結婚したが、病気がちな夫と家族を支えるため、いまは青果会社で働いている。
「ええ、強くなりましたよ、だって強くならなきゃ生きていけないもの」
 さいわい東京の家族と連絡がとれるようになり、何度か訪日した。自分同様ハイラルにとり残された孤児たちの帰国のために奔走しているという。
「ハイラルの残留孤児ふたりを日本にかえすことができました。あとはこの子だけです。何とかしてやりたいんですよ」と言う。

◆手がかりは火傷の跡だけ
 昭和47年(1972)の日中の国交が正常化されて間もなく、中国にとり残された残留孤児や残留婦人の問題がクローズアップされるようになった。
 厚生省は9年後から本格的な調査をはじめ、残留孤児の訪日や肉親との面接調査などが大きく報道されていた。しかし、よもやこの旅で残留孤児と出会うことになろうとは思いもよらぬことだった。
 夕方、仕事を終えた須田さんが、「この子」と呼ぶ崔銘さん(当時41歳)をともなってふたたび訪ねてきた。崔さんはハイラル二中の数学の先生だそうで、養父母はすでにないという。
 須田さんの通訳で彼の話を聞く。7年前、養母が亡くなる前に打ち明けてくれたという話はこうだ。
 20年8月、養母は昂々渓の西、嫩江川岸で柳行李をひろった。なかに一歳くらいの男の子が白い絹のベビー服にくるまっていた。右後頭部に赤い火傷の跡があった。
 養父母は周囲の日本人への強い風あたりを避け、ハイラルに移り住んだが、文化大革命時代にふたたび風当たりが強くなり、養父は大事にしていたベビー服をひそかに焼き捨て「息子は中国人だ」とまわりに言いつづけた。
 須田さんも日本の親族をさがそうと手を尽くしてきたが、あまりにも手がかりがすくないためにたどり着けないでいるという。
 崔さんは、娘ふたりにも恵まれ、中学教師のいまの暮らしに不満はないが、「祖国日本をひとめ見たい、血のつながる人たちに会って(自分が)日本人であることを確かめたいのです」と言う。
 しかし、日本の出身地も、親族の苗字も、家族が満州のどこで生活していたのか、すべてわからない。手がかりは火傷の跡だけである。
 須田さんによれば、2年前に福島市のSさん(故人)が父親ではないかという情報がもたらされ、この情報を追い続けているという。
 あまりにも情報が少なく、はたして親族までたどりつけるかどうか、自信はまったくない。
 しかし、崔さんとの別れぎわ、わたしは「できるかどうかわかりませんが、なんとか調べてみます」と答えていた。