第六十二回 ふたつの「尋ね人」

三原 浩良

◆か細い糸をたぐったが
 満州旅行から帰国して、ハイラルの残留孤児、崔さんの身寄りさがしにとりかかった。
 とは言っても手がかりがほとんどない。わずかにハイラルで須田初枝さんから聞いた、「父親ではないかと思われる人が福島市にいたらしい。でも、このSさんは故人らしい」というか細い糸しかない。赤ん坊のときの崔さんの後頭部の火傷の跡も、父親ならわかるかもしれないが……。この糸をたぐることから始めた。
 あちこちにあたってSさんの情報が載っているという、大阪で発行されている「興安隊会報」123号を取り寄せた。「興安隊会報」は戦時中、旧満州内モンゴルで編成された興安軍の関係者が編集・刊行している情報誌だった。
 それによると、Sさんは戦時中、ハイラルの特務機関で働いていたが、ソ連軍の侵攻で夫人、長男とともに行方不明となり、戦後、死亡宣告を受けたという。
 Sさんの父親は、仕事柄Sさんが殺されることはあっても母子までは殺すことはあるまいと、96歳で他界するまで死亡宣告を受けいれず、消息を待ちつづけたという。
 しかし、この「会報」に寄せられた当時のSさんを知る部下や同僚の証言によれば、母子の生存の可能性は薄いようなのだ。さらに現地を知る人たちは、崔さんが見つかった嫩江川岸と、Sさん一家が消息を絶った大興安嶺の山中ではあまりにも離れすぎており、こちらも可能性は薄いという。
 照会をうけた福島県の援護担当者によれば、Sさんの遺族も、崔さんがSさんの長男である可能性きわめて薄いだろうという。
 Sさんと親交のあったという「会報」の編集責任者のKさんからは「あまりしつこい照会は迷惑かもしれない」とたしなめられ、この線からの追跡はあきらめざるを得ない。
 か細い糸はここでプツンと切れた。

◆ここにも『大地の子』が
 余談になるが、山崎豊子は、わたしの中国旅行の前年(1984)から、大作『大地の子』の取材にとりかかったという。『大地の子』の連載は大きな反響をよび、さらにテレビドラマで世間の関心も高まった。
 だが、当時東北三省を訪ねた厚生省の調査団は内蒙古自治区までは足を延ばしていないため、崔さんのビデオテープもなく、日本では確認も難しい。
 結局、わたしは情けないことにこれ以上の探索をあきらめざるを得なかった。しかし、藁にもすがる思いでわたしを訪ねてくれた崔さんと須田さんになんと返事をすればよいのか。しばらくペンをとれなかった。
 Sさんの実弟は先の「興安隊会報」に「自分の生まれと祖先を知りたい残留孤児の心中を察するとき、あまりにも可哀そうです。来日する孤児の半数も肉親に会えない現状を思うと胸が痛みます」との手紙を寄せ、「もし、崔君が来日すればいつでも会う」と書いていた。
 そのこともあわせて重い気持ちで須田さんあてに報告したが、返信はなかった。
 厚生労働省によれば、平成26年7月現在、中国残留孤児の総数は2818人、このうち身元がわかった孤児は1284人だという。崔さんもこの数字に含まれているのだろうか。

◆須田さんの帰国をブログで知る
 このコラムの60回で紹介した陳ゆうさんという中国在住邦人の「ノモンハン・満州里への個人旅行」というブログ(2011年)のなかに、こんな一節があった。
 陳さんはノモンハンに向かう途中、ハイラル駅前の客待ちタクシーの運転手さんと雑談をかわした。以下はそのブログから。

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「この街には戦後、日本人が住んでいたか」と尋ねてみた。残留孤児について聞いてみたのだ。
「昔は知り合いがいたけれど、国交が回復した後、日本に帰った」とのことだった。
 彼の近所に日本人女性が住んでいて、中国人と結婚して子供もいたが、国交回復後に夫と子供を連れて日本に帰ったらしい。
 どういう経緯で、こんな僻地に日本人女性が単身で残されていたのか。大戦末期にソ連が侵攻してきた地域なので、壮絶な体験をされたのではないだろうか。とり残されて、生きるために中国人と結婚して子供を生み、現地の一庶民として静かに暮らしていたのかもしれない。

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 この日本人女性は、おそらく30年前にハイラルで会った須田初枝さんだと思われる。30年近い時を経て、国境をこえる電脳空間で彼女の消息を知り、いっとき呆然とした。

◆もうひとつの「尋ね人」
 戦後、NHKラジオに「尋ね人の時間」という番組があった。敗戦の翌年から昭和37年(1962)までつづいた。
「尋ね人の時間です」と男性アナウンサーの声ではじまる番組で、復員者や引揚者、戦友などの消息をもとめる依頼の手紙をアナウンサーが淡々と読みあげ、NHKへの連絡を求める内容だった。
 その独特の口調はいまでもわたしの耳は記憶している。いや、この番組の聴取率は90%を超えていたというから、「昭和の子」のほとんどが耳にしているはずだ。
 この間、NHKには1万9515件の依頼が寄せられ、うち6797件の「尋ね人」が見つかったという。米軍占領時代には、広島と長崎、つまり原爆にからむ消息の依頼はGHQの指示で放送できなかったことと、最近になって知った。
 
 中国旅行からかえったころ、今度は別の「尋ね人」の依頼を受けた。
 突然たずねてみえた初老の女性は、「戦時中に長崎県の大村航空隊の隊員とあわい交際があった」。しかし、彼はその後、鹿児島の鹿屋基地に移ったあと消息がなかったので、おそらく特攻で出撃し、戦死したのではないかという。
「一度お墓参りをしたいので、遺族の住所か墓所をさがしてもらえないか」というのが、彼女の依頼だった。
 さいわい本人の氏名、出身地がわかっていたので愛知県の援護担当課に問い合わせた。
 一週間ばかりして丁寧な返事が届き、遺族の住所や墓所までわかったので、お知らせした。
 しばらくして、彼女から「おかげでお墓参りもすませ、ご遺族にお会いすることもできました」と礼状が届き、わたしも安堵した。
 さいわい? 個人情報保護法の成立(平成15年)前で、愛知県の担当者は親切に教えてくれたが、いまならどうだろう。こんなに容易には教えてくれぬかもしれない。
 こうして、わたしの戦時「尋ね人の時間」は終わった。忘れることのできぬ、ふたつの「尋ね人」であった。