第六十三回 「三惚れ」の記者稼業

三原 浩良

◆戦艦大和発見の特ダネ
 長崎支局長を5年勤めた。
実に楽しい5年間だった。仕事もよくやったつもりだが、毎晩のようによく呑んだ。さかずきかわすことで、土地の人と次々に親しくなり、結果、それがまた仕事にもつながっていく。
 下戸には叱られそうだが(いや、下戸の上司に「酒なんか飲まずとも仕事はできる!」と叱責されたことも実際あった)、酒なくてなんの記者稼業や、とさえ思う。酒場は肩書きをはずした異業種交流の場だと思う。その一例――。
 赴任したばかりの昭和57年(1982)の初夏だった。酒を通じて親しくなった小さな船会社の社長さんに耳打ちされた。
「いまね、うちの船は戦艦大和を探しに出かけてるんだよ」
 エッ、戦艦大和探し? 一瞬、意味がわからなかった。よくよく聞いてみると、彼の持ち船のタグボートをふくむ船団が、鹿児島沖の海底に沈んでいるはずの、あの戦艦大和を探しに長崎港から出港したという。
 大戦末期の昭和20年(1945)4月7日、世界最大といわれた戦艦大和は特攻作戦のため沖縄に向かう途中で米機動部隊の待ち伏せにあい、長崎県男女群島女島南方およそ200キロ付近の鹿児島沖で撃沈された。3000余の乗組員のほとんどが戦死、わずか270余名だけが救助された。
 最新の魚群探知機やソナーを装備した船団には、大和生き残りの乗組員や、米軍の資料から沈没位置を割り出したNНKのスタッフなどが乗りこんでおり、早ければ数日後には結果がでるかもしれぬという。

◆「土地に惚れ、仕事に惚れよ」
 驚いた。そんな大ニュースが酒席からポロリと落ちてくるなんて。あわてて取材体制をととのえ、ひそかに洋上からの写真撮影のために航空取材を手配する。
 数日後、くだんの社長から「見つかったようだ」と興奮した声で電話があった。現地から「大和発見せり」と無線連絡がはいったという。
 魚群探知機やソナーが海底の大和らしき画像をとらえ、その位置は北緯30度43分17、東経128度04分00、NНKのスタッフが割り出した地点ぴったりの海底だった。
 こうして「大和発見」を夕刊で特報することができた。
 気の毒だったのは、乗り組んでいたNНKのスタッフである。ニュース取材班ではなく、企画番組の取材チームだったらしく、「発見」の連絡がおくれ、よもやと思った陸上から出しぬかれる結果となったのである。
 しかし、このときの「大和発見」は魚群探知機がうつしとった画像による「発見」で、決定的とはいえない。
 3年後、戦艦大和遺族会と角川書店などが、ヨーロッパから潜水艇を借りてさらに本格的な探索に乗り出した。その結果、水深345メートルまでテレビカメラをおろし、鮮明な画像を得て「大和沈没位置」が確定された。

「大和発見」の特報を自慢したいのではない。記者稼業は、土地の人と親しくなってはじめて「仕事」になることを言いたかったのである。
 いまではあまり聞かぬが、むかし「自治省の三惚れ」という言葉があったそうな。
 自治省はいまの総務省。振り子のように本省と地方を行ったり来たりする自治省のお役人は、赴任先の土地に惚れ、仕事に惚れ、女房に惚れなさい、という三訓である。
 これはわたしたちの仕事にもそっくりあてはまる。その土地と人に惚れずして仕事なんてとてもできない。いやできたとしてもおそらくさっぱり面白くないだろう。
 いま思いかえしても、長崎の5年間、親しくなったさまざまな人たちに助けられて、「仕事」をまっとうすることができた、とつくづく思う。