第六十五回 反響大きかった「緑健農法」のルポ

三原 浩良

◆気がかりな「食物考」のその後
 昭和61年(1986)3月、5年勤めた長崎から西部本社(北九州市)に転勤になった。今度は編集委員だという。ならば書くのが仕事だから願ってもないこと。
「まあ、少しのんびりしなさいよ」と上司はすすめてくれたが、なにも書かないでは居心地が悪い。地方版の片隅で小さなコラム「地方記者」をはじめた。これまでの記者生活をふりかえっての軽い読み物、これは後に単行本にもなった。
 しかし、気がかりがある。日米の貿易摩擦が激しくなり、農産物の自由化を求める声が高まり、オレンジ、牛肉の自由化についで、アメリカは米の関税引き下げを求めはじめていた。10年前に食の安全と農業をテーマに長期連載した「当世食物考」のその後が気にかかる。
 ある日、長崎に旧知の小田浩爾さん(当時は長崎県住宅供給公社理事長)を訪ねると、机のうえに永田照喜治さんの著書があるではないか。珍しい名前だから忘れようがない。
「あれッ、この人知ってます」
「ああ、大学の同期生でね、いま面白い農法をやっているよ」

◆永田照喜治さんとの再会
 熊本で知りあったころの永田さんは、天草・牛深の農協長だった。神戸高商でフランス経済を専攻したが、帰郷して家業の農業を継いだ。
 その永田さんが、「米価を下げよ」「農協の肥料は高すぎる」と、農協長としては破天荒の要求をかかげて、単身、熊本県農協中央会に座り込んだのである。驚いて取材したことを思いだすした。
 戦後の米価はながいあいだ政府の統制下におかれ、米価審議会をはさんで政府と農協の交渉で決まる「政治米価」。生産者米価は政府の生産費補償があるから消費者米価をうわまわる逆ザヤが生じるようになっていた。農協はこの米価交渉に全力を注ぎ、その時期になると、毎年ムシロ旗が国会を取り巻くのが恒例になっていた。自主流通米から、やがて小売価格自由化に進むのはまだのちのことである。
 永田さんによれば、山が海になだれ落ちたような地形の天草・牛深は、平地が少なく、田畑はほとんど傾斜地に散在するから米を自給できない。半農半漁の多くの組合員は、「米を買う」ので、こんな要求になったのである。
 しかし、当然ながら永田さんの要求は一顧だにされず、「たったひとりの反乱」は異端児のレッテルが張られて終わった。
 ほぼ四半世紀ぶりに再会した永田さんは、浜松市に本拠をうつし、「緑健農法」と呼ばれる農法の〝伝道師〟になって全国をかけまわっていた。

◆「緑健農法」は「いじめ農法」
 永田さんが提唱、実践する「緑健農法」は、「原生地農法」とも呼ばれ、ひとことで言えば、作物の原生地の農法に改良を加えたものである。
 ヒントは牛深での経験にあった。平地の肥えた土地でつくったミカンよりも、なぜか痩せた岩山のような土地で育ったもののほうが甘くておいしい。そこで田んぼを売って山の石ころ畑で実験をはじめ、さらに大学や企業とも提携して鹿児島県で大規模な実験を繰り返し、この農法にいきついた。
 その特徴はトマトにもっともよくあらわれる。トマトはもともと南米ペルーの山岳地帯に自生していたのだが、土地は乾燥し、石ころだらけだった。永田さんが改良を加えた農法は、ビニールハウスで湿気を遮断して土を乾燥させ、水をほとんどやらずに育てる。植物は身もだえして必死に根を張り、毛細根をのばして水を求める。そんなところから別名「いじめ農法」「スパルタ農法」とも呼ばれる。
 こうして糖度11~12度というイチゴより甘くて、実のしっかり詰まったトマトができるのだという。百聞は一見にしかず。そのトマトを数人で試食した。普通のトマトは水に浮かぶが、永田トマトは沈む。それだけ実が詰まり、重い。
「う~ん、甘いなあ。こんなトマトははじめてだ」
 噂にたがわず甘い。野菜というより果物に近い味とボリュームである。試食にあずかった面々、驚いた。もともとトマト嫌いのわたしも思わずうなったほどおいしい。東京のデパートでは「完熟トマト」のブランド名で売っているが、高価なのに飛ぶように売れるという。
 この「緑健農法」がいま、各地に普及しはじめ、問い合わせや見学者が殺到し、永田さんは大忙しである。好奇心とともにむずむずと取材意欲がわいてきた。

◆「赤いトマトの旅」に出る
 こうしてわたしは永田さんにくっついて、「緑健農法」の実践農家を訪ねる旅に出た。
 大分県国東半島に散在するミカン農家やトマト農家、杵築市のトマト農家には北海道や長崎から見学者が訪れていた。「緑健農法」に全国から関心が寄せられていることが実感できる。
 佐賀県嬉野市ではお茶農家、大分県安心院町や院内町のブドウ農家、長崎県大島町では造船会社が緑健トマトの栽培をはじめようとしていた。永田さんの指導を待つ人たちはいずれも、農業の将来に不安を感じ、なんとかそれを打開しようとする人たちだった。
 長崎県大村市で「緑健農法」の適地探しをする市の幹部に同行したときのことだった。山の傾斜地に案内された永田さんは、歩きながら手にとった土をなめてみる。「う~ん、ここの土はちょっとなあ」と首をひねる。どうやら適地ではない様子だ。こんな調子で〝緑健伝道師〟の布教はつづく。

◆反響の大きさは農への不安
 この現場ルポは連載中から大きな反響を呼んだ。多かったのは「その甘いトマトはどこに行けば買えるのか」という問い合わせ。これには困った。ほとんどが東京など大都市に運ばれて、高い値で売れてゆく。生産が追いつかないのである。
 農家の人や農業団体や役場からも「生産農家を訪ねたい」「もっと栽培技術を知りたい」などと問い合わせが相次いだ。あらためて農業の将来に不安を抱く人の多いことがわかった。
「赤いトマトの旅」は昭和63年5月から30回連載したが、連載終了後もわたしは北海道(千歳近郊、旭川市、小樽市、知内町)、東北(仙台、福島)など各地の「緑健農場」を訪ね歩いた。
 千歳近郊の緑健直営の大規模なトマトハウスはまるで工場だった。収穫も施肥もすべて自動化され、コンピューターで温度や湿度が管理されていた。6メートル余のトマトの木? の収穫に高い車輪つきの脚立がレールのうえを移動していた。ハウスのなかを鳥が飛んでいる。味をしめた鳥がやってくるという。
 おいしいスイート・コーンやホウレン草をはじめて生で食べた。ホウレン草特有のあのえぐみがない。東北で実験中だった稲は、両手でひっこ抜こうとしても根が張って抜けなかった。ともかく驚きの連続だった。
 札幌では「緑健野菜」を産直で買っている生協の人たちにも取材したが、わたしの記事のコピーがまわし読みされていることを知り、これには感激した。さっそく連載記事を冊子にまとめて送った。

◆「やっと時代と出会えた」
 この紙数で「緑健農法」のすべてを書くのはとうてい無理なので、そのエッセンスを語る、以下の「永田語録」から推察いただきたい。

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「風通しのいいところ、それも潮風がいい。潮風にあたると糖度が増す。なぜ? それはわかりません」
「90%は環境、10%が技術でしょう」
「(原生地と似た環境だとなぜ甘いトマトができるか)よくわかりませんが、眠ってる遺伝子が目を覚ますんじゃないでしょうか」
「これまでの流通ルートでは生産者と消費者のあいだで情報が遮断されていた。これではいいものが評価されない。わたしたちはやっと他産業並みに風通しをよくしただけです」
「今までの農業の先入観をもたない素人がかえってうまくいく場合があります。素人という意味では他産業からの参入も面白い」
「米に依存して農民が土地にしばりつけられてきた時代は終わった。若い人はもっと国際化時代に見合った農業を目指してほしい」
「適地がなかなかない。自然条件がよくても農家は大抵借金をかかえているから新たな投資がむずかしい。社会的な条件もそろわないと新しい産地づくりは進まない」
「工業の手法は使うが、あくまで農業は本質的には手作り。眠っている感性を起こすのに少しトレーニングが必要だから、わたしはその手伝いをやってるだけです」
「時代ですね、やっと時代と接点ができた。時代と出会うことができました」

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 この「語録」は25年も前のものだが、決して古びていない。いやそれどころか、TPP交渉に一喜一憂する近年の農業環境のなかにおいてみると、その先見性に舌を巻くのである。