第六十六回 記事を書けなくなった管理職

三原 浩良

◆進む新聞製作の技術革新
 編集委員はまもなくお役ご免となり、「ラインで働け」と畑違いの写真部長をやらされることになった。
 ちょうど昭和が終わり、平成にさしかかるとき。テレビには「平成」と新元号を大書したボードを小渕官房長官がカメラに向かってしめす映像がうつっている。
 かたわらのデスクは、ポラロイド・カメラでテレビ画面を撮影している。東京からの電送を待っていては夕刊の締め切りに間に合わないのである。そのころの紙面には、「NHKテレビから」と断りのはいった写真がよく載っていた。
 新聞製作はすごいスピードで進化していた。それまでは活版でつくった鉛版を輪転機の胴にまきつけて印刷していたが、オフセット印刷機が導入され、そこへカラー印刷機能が搭載される。ソフト面では、原稿は手書きやファックス送稿からワープロになり、またたく間にパソコンに切りかわる。カメラはフィルムからデジタルへ、やがて暗室無用となり、伝送方式もがらりと変わる。
 暗室でフィルムを現像し、印画紙に焼き付け、電送機で送信という一連の作業は消えていった。こんなめまぐるしい変化におくれをとらぬようについていかねばならない。経営陣はふくらむ設備投資に頭を悩ましていたにちがいない。
 それまでのカメラの世界はオリンピックにあわせ、おおよそ4年ごとにモデルチェンジが進んでいたが、このころからメーカーの競争も激化し、毎年のように変わっていった。どでかい高価な電子カメラ(デジカメは当初はそう呼ばれていた)を入れたと思ったら、たちまち新機種がとってかわり、モノクロの自動現像機を導入すれば、次はカラー現像機、さらにカラーネガ電送機とめまぐるしい。ポケット・ベルから自動車電話にかわり、やがて携帯電話が普及する。
 写真を撮らない(撮れない)写真部長は、「おいおい、また予算オーバーだよ」と叱られながら、次々に発売される新機種購入の稟議書ばかり書いていた。

◆不祥事のあとしまつ
 翌平成2年4月、報道部長になる。いつの間にか齢五十の坂を超えていた。
 東京本社や大阪本社では、社会部と地方部はそれぞれ独立した取材部門だが、西部本社の報道部はこのふたつをいっしょにしたようなもので、一挙に100人近い記者の元締め? となった。
 この仕事は職場の環境整備と人事だと割りきった。現場にでかけて原稿を書くことはまずない。紙面づくりは、小倉・福岡あわせて8人のデスクや支局長たちにまかせて後衛にまわる。
 これだけの部員がいれば、予期せぬこともいろいろ起きる。不名誉なことだから、あまり書きたくないのだが、おもいもよらぬ不祥事が起きた。
 ひとり勤務の通信部の先輩記者が、窃盗容疑で逮捕されたという記事が他紙に載って驚愕した。交通事故ならままあるが、よもや窃盗とは! 記事を書くはずの記者が記事になってしまった。現地の 支局長と情報収集にあたるが、警察も口が堅くて、詳細がなかなかつかめない。
 人目につかぬよう深夜某県まで車をとばし、県警本部長の自宅を訪ねて事実を聞きだそうとする。何十年ぶりの「夜討ち」である。凍てつく深夜、単身赴任で帰宅のおそい本部長を待っていると、気持ちが折れそうになる。
 やっとつかまえた本部長に「余罪はないでしょうな?」と尋ねると、「う~ん、それがありそうなんですよ」。参ったなあ、もう。
 結局、恐喝未遂までくっついて起訴され、この記者は懲戒解雇。わたしも減給処分を受け、自社の紙面にデカデカと載った(実際はベタ記事なのだが、わたしにはでかくうつった)。案の定、記事を見かけた旧知の人たちから「お前何やったんだよ」と冷やかされる羽目になった。
 しかし、通信部を空白のままあけておくわけにはいかない。せまい町にはあれこれ尾ひれのついた噂がとびかっている。傷んだ地元との関係を修復せねばならぬ。
 そんなところに喜んで行く記者はいないだろう。若いM君に「どうだろう、行ってくれないか」と頼むと、彼は「ああ、いいですよ」と、あっさり快諾してくれた。涙がでるほどうれしかった。M君はのちに欧州特派員となり活躍する。
 ところが、翌年の初夏、雲仙普賢岳の噴火災害で同僚3人を失う思いもよらぬ痛恨事が起きる。いま、御嶽山・噴火災害のあの天をおおう噴煙をテレビでみると、悪夢がよみがえる。