第六十七回 雲仙普賢岳の火砕流で

三原 浩良

◆「応答せよ、応答せよ」
 平成3年(1991)6月、雲仙普賢岳(長崎県)を取材中の同僚3人が火砕流にのみこまれて殉職する痛恨事が発生した。当時、わたしは毎日新聞西部本社報道部長だったが、いま改めて23年前の記録を読み返しながら、とりかえしのつかぬ思いとともに、いまもメディアに自省を迫る課題に思いが及ぶ。
 雲仙普賢岳は前年11月に200年ぶりに噴煙をあげ、翌3年2月に再噴火して活動が活発になり、それまでに堆積していた火山灰や噴石が降雨で土石流となって水無川に流れだし、流域の住民470人が一時避難する容易ならぬ事態となってきた。
 火口からは奇怪なかたちの溶岩ドームがせりだして成長をつづけ、支えきれなくなると溶岩が崩落して斜面をすべり落ちはじめた。このときはじめて気象庁や火山地震予知連から「火砕流」という言葉が出た。同時に「大事には至らぬだろう」という情報もあわせもたらされたために、「火砕流」への認識が甘くなってしまった。
 わたしも現地に何度も入り、梅雨入り前には現地の取材陣は常時13人にふくれあがり、上空からは連日ヘリコプター取材を続けていた。
 そして6月3日午後4時過ぎ、大火砕流が斜面をかけくだり、43人の死者・行方不明者をだす大惨事が発生した。「応答せよ、応答せよ」と懸命に呼びかける無線の声にわが同僚3人はついに応答できなかった。
「どこかに避難しているのでは」と一縷の望みをつなぎながら本社の編集スタッフたちは黙々と紙面製作にあたっていた。しかし、夜になって警察から本人確認のための歯型の提出を求められ、3人の遭難は確実になった。他のメディアのスタッフや消防、警察、住民の遭難も次々にもたらされた。
 翌日明らかになった死者・行方不明者43人のうち、報道関係16、消防団12、火山学者4、タクシー運転手4、住民3、警察官2、市職員2、火山災害としては戦後最大の惨事となった。

◆危険回避と報道の使命
 遭難者の半数近い20人が報道関係者だったため、災害取材の安全確保のありかたが論議される一方で、警察や消防、行政、住民の一部からは「報道陣が危険な区域に入っていたため巻きこまれた」とメディア非難の声もあがった。
 取材に直接かかわっていない複数のベテラン記者に、事件の「検証」を依頼する一方、取材関係者への聞き取りやアンケートにもとづいて問題点を洗い出した報告書を提出した(「検証」は後日紙面化された)。新聞社の事故調査委員会もこれらを参考に「事故報告書」をまとめて社内外に公表した。
 その要点は、①火砕流への認識が甘かった ②専門家や警察・行政の取材陣への「警告」があいまいだった ③災害取材の危険回避は現場の判断にゆだねざるを得ず、今回のケースでは被災を避けることは不可能に近かった――というものだった。
 危険を回避しながら取材の使命を全うするという命題は、報道につきものの悩ましい課題である。あらゆる危険を回避するには取材を放棄すればよい。しかし、それでは報道の使命は全うできない。
 ヴェトナム戦争末期のサイゴン陥落のさい、特派員たちは残留すべきか、撤退すべきか悩んだ。結局、各個人の判断で残留して取材を続けた記者、撤退した記者にわかれた。判断は現場の記者にゆだねざるを得なかった。戦時や戦闘の取材では、記者やカメラマンは常に同じような判断を迫られる。
 外信部のデスクに尋ねたことがある。「君ならどうする?」と。彼の答えは「危険は回避せよ」と言うものの、内心では「危険を避けながら取材を続けて欲しい」と思う、と。そうだろうと思う。危険をともなう災害取材でも同様の判断を迫られる。

◆「警戒区域」の取材をどうするか
 大火砕流のあと、流域一帯には災害対策基本法にもとづく「警戒区域」が設定された。特例をのぞいて警戒区域にはいれば、法的処罰も覚悟しなければならない。
 事件後、カメラマンの福田文昭氏とジャーナリストの江川紹子氏の訪問を受け、「なぜ警戒区域にはいって取材しないのか」と詰問された。住民が入れなくなった警戒区域内の田畑や住宅、家畜たちがどうなっているのか、それを取材するのが報道の責務ではないのか、と。警戒区域内を取材したフリーの記者が警察の取り調べを受けていた。
 答えに窮した。もっともな問いである。「ではあるが、何しろ殉職者を3名もだして、警察や消防、自衛隊に多大の迷惑をかけたばかりである。それはちょっと……」というのが、わたしのホンネだが、そうは言えないので口ごもるしかなかった。口にはしなかったが「それは記者の命を賭けるほどの報道対象か」という思いもあった。その後、実際に警戒区域にはいった住民が、火砕流に被災して亡くなった。
 東日本大震災でも同じ課題は繰り返された。福島第一原発を遠望するNHKの固定カメラの映像には、かならず「10キロ(だったか)離れたところからの映像です」という趣旨のテロップがついていた。違和感のある一種のエクスキューズである。
 警戒区域にはだれも入らなくなった。警戒区域内の取材を敢行した鳥越俊太郎記者は「どこの局もその映像を使ってくれなかった」と嘆いていた。

◆最低だったメディアへの住民の評価
 普賢岳災害の取材が残した課題はそれにとどまらなかった。火山活動がややおさまったころ、ある大学のチームが住民に広範なアンケート調査を実施した。その結果をみて愕然とした。
 いまそのデータが手元にないので、正確な引用はできないが、圧倒的多数の住民が自衛隊の活動を高く評価していた。これは当然であろう。災害派遣された自衛隊は事件後4年余1653日にわたって、遺体の搬出にはじまり、警戒区域内の調査や住民保護、復旧作業に活躍した。
 対照的に住民からもっとも低い評価を与えられたのはメディアだった。他の災害地ではかつてみられなかった低評価、悪評といってもよい。
 無理ないと思うこともあった。大火砕流のまえだったが、某テレビクルーが住民の避難した留守宅にあがりこんだり、無人カメラ用の電源を勝手に引いたり、警察から警告を受けるお粗末があった。避難所に泥靴のままあがりこんで取材しようとしたテレビクルーが、住民の顰蹙をかったこともあったという。
 こうした〝お行儀の悪さ〟にくわえ、町のタクシーがほとんどメディア関係者にチャーターされて病院通いの高齢者が困ったり、ホテルもメディアに独占されたことなど、住民に生活上の不便が生じてしまったことなどなど。
 さらに警察や消防団からは「危険個所にいる報道関係者を見守るため」に多くの犠牲者が出た、とメディア非難の声があがったことも住民感情に大きく影響した。メディア側にも言い分はあったが、十分な検証もへぬそんな声が口コミで伝わっていった。
 のどかな田園風景のひろがる地方都市に、大取材陣が押し寄せ、住民との接触がふえるにつれて軋轢や衝突も目立っていた。地域に寄り添おうとする地元メディアと、いきなりやってきた大量の中央メディアのスタッフとの取材方法の落差も要因のひとつだった。
「最低の評価」も、残念ながらメディア側は甘受しなければならなかった。

◆中学生のひとことにガツンとやられた
 わたしたちは当初、民家を借りあげている島原通信部を取材本部にし、応援取材陣はホテルに宿泊していた。あるとき、ラジオ無線の感度をあげるためにアンテナの取り換え工事をやっていると、近隣住民から「逃げるのか」と尋ねられた。「いち早く情報を入手できる(はずの)新聞社が撤退するほど危険が迫っているのか」と住民は疑心暗鬼になっていた。
 某社が取材本部を一時市外に移したときには、「報道は逃げるのか」と、住民や行政マンからも非難する声があがったと聞いた。災害取材における、住民と報道の信頼関係について考えさせられた。
 しかし、取材陣が増えるにつれてさすがに通信部では手狭になり、市内に見つけた手頃な建物と通信部に取材本部を分散して取材にあたることにした。
 このとき、「新聞社が逃げちゃいかん」と通信部主任の長男の中学生が、父親に強く訴えたと聞いた。学校で新聞社の取材本部移転が話題になり、級友たちから非難されたらしい。むべなるかな。子どもたちのあいだにまで「メディア不信」が広がっていることを知り、衝撃を受けた。
「彼ら(報道)が、正確な報道をしてくれる(はずだ)から、危険区域での取材も許容される」――そんな住民との信頼関係があってはじめて災害地での取材はなりたっている、理屈ではそう考えていた。そこが崩れてしまっては、取材は成り立たないではないか。
 小さな町にあふれたメディアの取材陣たちは、みずからの取材競争や取材優先の思いあがりから、「住民」がすっぽり抜け落ちていたのではないか。この中学生の訴えを聞いて、ガツンと頭をやられた思いがした。
 それにしても、なんと教訓と課題の多い災害取材であったことか。