番外編 高倉健と菅原文太の「昭和」逝く

三原 浩良

◆人生が変わる一瞬

「諸行無常。
 僕が最初にそれを味わったのは、終戦、あの八月十五日。」

 高倉健が「文藝春秋」(2015年1月号)の求めに応じて寄せた絶筆となった一文は「諸行無常」にはじまる。
 昭和20年8月15日、旧制中学生だった小田剛一(本名)は、学徒動員先の福岡県遠賀郡香月のお寺で玉音放送を聞いた。雑音だらけの放送は「何を云ってるんだか聞きとれなかった」が、大人たちが何人か泣いており、友達が「日本は戦争に負けたらしいばい」と言ったので、敗戦を知る。
 十二歳の(おそらく)軍国少年は、激しいショックを受けたに違いない。「その後何度となく味わった、人生が変わる一瞬。諸行無常。この時が、初めての経験だったような気がする。」と記している。
 高倉健(1931~2014)には取材で二度ばかり会っているが、九州から東映京都の撮影所にやってきたと聞くと、すでに大スターだった彼は信じられぬほどねんごろに接してくれた。細部は忘れたが、深夜まで喫茶店をはしごしながら、ハリウッド映画について延々と語り続けた。
 敗戦に相当なショックを受けたはずの小田は、わたしにはやや意外だったが、戦後早くから親米青年になっていったようだ。小倉に進駐した米軍士官の息子と親しくなり、東筑高校時代にはみずからESS部(英語研究部)をたちあげ、英語に磨きをかけようとするなどアメリカ文化の洗礼を受けている(ウィキペディア)。
 高倉のどこでも誰にも礼儀正しく、義理と人情にあついありようは数々のエピソードで語られている。「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」と尊崇する阿闇梨の言葉を繰り返し「わが道」だと語っている。

◆戦後民主主義と「修身」教育
 高倉健を追うように菅原文太(1933~2014)も逝った。
 文太にも取材で二、三度は会っているが、いずれも製作中の映画についての会見で、そんな席で彼が自身の戦後について語ることはなかった。
 終戦の日の翌日に12歳の誕生日を迎えた文太は、国民学校の6年生だったはずだ。空襲を避けて東京から仙台郊外に疎開していた彼は、戦時中の「少国民」ではあったが、おそらく高倉ほどの「軍国少年」ではなかったろうと想像する。
(先の高倉の手記には「8月15日を12歳で迎えました」と書いているが、1933年の早生まれの彼は14歳になっていたはずだが)
 俳優を引退してからの文太は、反戦、有機農業、反原発などの運動に力を入れて晩年はその道を模索し続け、最晩年には病気をおして沖縄に出向き、知事選の応援演説で「まだ弾は一発残ってるがよ」と「仁義なき戦い」の決め台詞を吐いて逝く。
 高倉より2年以上年下の文太には、はっきりと戦後民主主義の影響がうかがえるように思われる。このあたりの一、二年の違いは以外と大きい。
 わたしはいま、二人の歩みのなかにやや性急に戦中・戦後史の投影を求めている。
 吉見義明は『焼跡からのデモクラシー 上』のなかで、戦後民主主義と伝統の関連について、多くの資料をもとに次のように指摘している。
「この時代の若者たちは、勉学や修練を重ねることによって人格を完成させるという『修養』の道徳を身につけていた。これは、一面では伝統的な民衆道徳であったが、学校教育で奨励されるという官制的な性格もあった」
「学校教育で奨励する」官制の道徳とは、つまりは戦時中の「修身」教育のことであろう。
「わが往く道は精進」という高倉の歩みに、その痕跡がうかがえるのか。菅原にはその痕跡はないのか。微妙に異なるふたりの晩年の軌跡に思いを寄せるのだが。