第六十八回 新聞記者から編集者へ

三原 浩良

◆「入院は内密に」という電話
 記者生活はそろそろ終わりに近づいていた。五十五歳定年が一般の時代である。
 いったん定年退職したが、「もう少し働いたら?」という上司のすすめで、特別編集委員という何だかエラそうな肩書をつけられ、しばらく残ることになった。
 ところが1年もたたぬうちに、思いもよらぬ事態によって、余儀なく記者生活は終わりを迎えることになった。それは一本の電話からだった。
 平成6年(1994)があけてすぐだった。福岡市の出版社・葦書房の久本三多社長から電話がはいった。
「しばらく入院することになった。フィリピンに出張することにしているので、入院の件は内密に」という。たしかに彼は前年フィリピン・ネグロス島に取材旅行にでかけていたが、それにしても「入院は内密に」というのは容易ならぬ話である。
 あわてて病院にかけつけると、「いやあ、参りました」と肝臓癌の告知をうけたことを告げた。5年ばかり前に彼は肝炎で入院したことがあったが、「こいつは効きますよ」と、ばかでかいウコンの塊を持参して、その薬効に蘊蓄を傾けることもあり、酒はひかえていると聞いていたので、さほど心配してはいなかった。
 彼の父は肝硬変が腫瘍になり、44歳で亡くなっている。彼はそのことを強く意識して、45歳になったときには「親父を超えた」と祝杯をあげていたのだが。
 どうやら肝癌は末期らしく、病院を転々としながらさまざまな療法をこころみるが、病状は確実に悪化をたどり、最後の病院の医師は余命の告知を迷っている様子だった。
 癌の告知から半年足らず、わたしはほぼ毎週末の数日、北九州から福岡に通い、葦書房のスタッフと打ち合わせ、仕事の進捗状況の報告や経営上の判断をもとめて病院に彼を見舞った。
 かたわら、ひそかに後継者さがしをはじめた。創業から二十四年がたっていたが、現在のスタッフはいずれも二十代から三十代で、後継者には少々若い。かつての葦書房出身者を中心に後継者を求めたが、固辞されて途方に暮れた。

◆『筑豊炭坑繪巻』の誕生
 久本三多は、終戦の翌年(1946)に東京郊外で生まれているが、おそらく戦後の生活難から、一家は母方の縁をたよって長崎市に疎開し、一時は観光名所のグラバー園内のオルト邸に住んでいたという。小中高、大学時代を長崎で過ごし、大学卒業後は東京書籍九州支社に入社して営業を担当していたが、仕事が肌合いにあわず退社する。そのころ、東京書籍時代の友人たちが福岡市で葦書房を創業、昭和45年(1970)に彼をふくむ4人で船出した。
 その一年後、福岡に「水俣病を告発する会」をたちあげる集会の会場に彼が訪ねてきた。話の内容はさっぱり思いだせないが、ぼそぼそと口ごもりながらしゃべる彼に好感をもったことを憶えている。
 以来、つきあいが深まっていくのだが、創業当初の葦書房は木造二階建ての、歩けば床がぎしぎしときしむ保護会館という老朽家屋の奥まった一室に事務所をかまえていた。
 翌年、先輩から社長を譲り受けた久本は〝宝の山〟を掘りあてる。のち(平成23年)に世界記憶遺産に登録されて一躍注目を浴びることになる、山本作兵衛の筑豊炭鉱の記録画と出会うのである。
 当時、画家の菊畑茂久馬は自身講師を務める東京の美学校で、作兵衛の炭鉱画の模写を計画して準備中だった。そこへ久本が訪ねてきた。
「今後の仕事のシンボルになるような、最初の本に作兵衛さんの本を出したい。協力して欲しい」と。
 菊畑のアトリエには、作兵衛画が広がっていた。「彼は床一面に花を散らしたようにひろがる作兵衛さんの絵の写真を見て、一瞬『うおー!』と大声をあげた。彼は私のアトリエを訪ねて来て、一気に作兵衛さんの真只中に飛び込んでしまったわけだ」と、菊畑は書いている(『久本三多――ひとと仕事』)
 この日から、久本は菊畑の案内で、一升瓶をぶらさげて筑豊の酒豪・作兵衛さん詣でを続け、かたわら所蔵者の了解とりつけに走る。しかし、刊行にはまだハードルがある。原画の撮影をどうするか、葦書房にはカメラすらない。引き受けてくれる印刷屋さんはあるのか。
 ここにもうひとり、作兵衛画に魅せられた男がいた。木村栄文、RKB毎日放送のディレクター、彼もまた作兵衛画のドキュメンタリー制作にかかっていた。そのスタッフのカメラマンが画像の撮影を引き受けてくれた。
 印刷はどうするか。歩きだしたばかりの実績のない小さな出版社のこんな大仕事を引き受ける印刷屋はまずあるまい。葦書房はカラー印刷さえまだやったことがない。ここでまた菊畑がひとはだ脱ぐ。菊畑の小学校の同級生経営の同盟印刷に頭をさげて頼みこんだ。代金は売れただけ払うという破格のというか、無茶な条件である。
 心配になって同盟印刷を訪ねてみると、社長の椅子に菊畑がでんと座って制作の進行具合をいちいち確認していた。
 こうして翌年、B5判、318ページの大冊『筑豊炭坑繪巻』が世に出た。定価5000円、当時としては相当な高値である。
 ところが、これが羽根がはえたように売れに売れ、またたくまに増刷。葦書房の知名度は一挙に全国にひろがり、歩み出したばかりの小さな地方出版社の経営基盤をかためることにもなった。
 その後の歩みもまずまず順調だった。『潮の日録』(石牟礼道子)、『小さきものの死』(渡辺京二)、『夢野久作の日記』(杉山龍丸編)、『フジタよ眠れ――絵描きと戦争』(菊畑茂久馬)、『宮崎兄弟伝・日本編』(上村希美雄)=毎日出版文化賞、『写真万葉録・筑豊』全10巻(上野英信・趙根在監修)などの刊行で、〝東の津軽書房、西の葦書房〟などと喧伝されるほど、水準の高い、存在感のある地方出版社としての地歩を築いていった。

◆ 「×もあった」が、引き継ぐことに
 さて、その葦書房を牽引してきた久本の病状は日に日に悪化していた。若いだけに進行が早い。手術もままならず、ピンポイントで癌細胞をたたく肝動脈塞栓術もこころみられたが、あまり効果はあがらなかった。
 肝癌を告知されたとき、久本は「計画が5年狂った」と漏らしたそうだが、5年後といえば、創業30年。そのあたりで事業をたたむ心算でもあったのか。
 だが、このまま放置すれば彼の最期とともに会社は閉鎖するほかない。創業一代限り、このまま終わらせるか、とも思うが、それでは10人近いスタッフをはじめ、あちこちに迷惑をかけてしまう。弱った。
 迷った、悩んだ。いよいよ彼の残された命が旬日に迫った頃、思いきって彼に尋ねることにする。ときおりうつらうつらと肝昏睡にはいるようだが、うつつに戻ったときの彼は必死に答えようとする。聞く方も、聞かれる方もつらい一瞬である。
「これもあるかと思うが」と彼は、両手の人差し指で、×印をつくってみせ、やおら苦しげに言葉を継いだ。「みんな頑張っていることだし……」継承して欲しいとも思っている様子である。
「わかった。それじゃ俺の役員登記をするがいいか」と言うと、こっくりと頷いた。彼はやがて眠りにはいっていった。この瞬間、わたしは彼のあとを継ごうと覚悟を決めた。
 葦書房が軌道にのりはじめたころから、わたしは会社の借入金の個人補償を頼まれて引き受けてきた。だから経営実態もおおよそは把握していたので、前途容易ならざることは承知していたが、ここにいたっては引くにひけない。
 葦書房有限会社の役員は彼ひとりだから、このまま放置すれば、会社は機能を失い、手形の決済をふくめあらゆる経済行為が不可能になってしまう。あわてて司法書士の手をかりて登記をすませた。その数日後、彼は眠りについた。
 葬儀の手配に走りまわって驚いた。寄せられる花輪が尋常の数ではない。福岡でもっとも大きな斎場だったがあふれてしまった。
 秋田から、長野から、東京から、地方小出版社の社長たちが駆けつけてくれた。彼らは口々に「葦書房が目標だった」と語り、わたしはあらためて彼のやってきた仕事の大きさに感銘をうけていた。