第七十七回 50年ぶりの故郷

三原 浩良

◆「開地元祖」をたずねる旅
 ゆくりなくも体調を崩してしまい、しばらくは「昭和の子」に向き合うことかなわなかった。やっと小康をえてパソコンに向かえるようになったのでふたたび――。

 さて、弦書房での仕事を若い人たちにゆだね、2008年、博多の街から郷里の山陰・松江に帰った。
 前の年に93歳と101歳の両親をあいついで見送り、古希を超えての53年ぶりの帰郷だったから、帰りなんいざというほどの気持ちの高ぶりはなかったが、さてここを終の棲家とさだめて、残された時間をどう生きるか、何の目算もなかった。
 十八歳で後にした松江市古志原の実家は、すでに30年前に高速道路のしたに埋められ、すこし離れた住宅地に移っていた。このあたりは旧陸軍歩兵連隊の練兵場だったが、新興住宅地に姿をかえ、むかしの面影などどこにもない。
 出郷時には二千にも満たなかった町の人口はいまや一万三千余にふくらみ、周囲に旧知の人の姿もなく、再会をたのしみにしていた中学時代の親友たちは早々と鬼籍にうつっていた。高校時代の友人の多くも大都市に居をさだめ、地元に残るものはわずか、その友人たちが「おお、よく帰ってきた」とあたたかく迎えてくれ、いくぶん救われる思いだった。
 当然のことながら、50年の歳月は人も街もすっかり変えてしまっている。
 わたしはまずは荒れたままになっていた5、60坪ばかりの家庭菜園の野良仕事に汗を流すいっぽう、図書館通いをはじめた。
 中学生のころ目にした村の〝氏神サマ〟の境内にあった「古志原開地元祖之碑」が、ずっと気になっていた。やっと時間ができたので、この地の「開地元祖」をたずねる歴史小旅行をおもいたったのである。
  石碑には江戸時代に中海に浮かぶ大根島から移住してきた18人の名前が列記され、
  明治二十三年   古志原津田村合併
  明治四十一年   六三聯隊設置
  昭和九年十二月  本村松江合併
と、村のエポックが簡潔に記されていた。

◆街の古傷に向き合った
 わたしの育ったこの「古志原」という地名は、いったい何に由来するのか。
 手はじめに『角川地名大辞典・島根県』にあたってみると、出雲・古志村、松江・古志原いずれも「古代に越の人が住みついたことに由来すると伝えるが、定かではない」とある。「出雲・古志」は「出雲国風土記」にもその名の残る古地名だが、古志原の名はみえない。
 そうか、どうやら「古志」は「越」由来らしい。念のために『角川地名大辞典・新潟県』をみてみると、「古事記」などの伝承から「越は山陰地域との密接な交渉が推測される」とある。だが、なにしろ神代の昔のことだから、これ以上の探索は無理。やがて当地、古志原の名がはじめて史書に姿をみせるのは、戦国の世、中国路の覇権をめぐる毛利と尼子の合戦記のなかであることが、わかってくる。
 とまあ、こんな具合に現代まで、乏しい史料をもとめる旅は実に楽しくもあり興味の尽きないものであった。こうして一気呵成、一年余の旅の結果を『古志原から松江へ』として上梓することができた。
 いささか興奮気味に書きだしている序章の一節――。

 松江藩になかば強制されて移住した人々が、苦労して水のない荒地を開墾してきたが、ようやく開拓なったころ、畑地のかなりを藩の銃砲射撃場にとられ、さらに日露戦争後には畑地の大半を歩兵連隊用地に献納させられた。そして敗戦、兵営には進駐軍がやってきた。古志原の三百年を素描すれば、ざっとこんなところだろうか。
 そのトリビアに興味が尽きない。ここには時代の地層が幾重にも折り重なり、あちこちに歴史のカサブタごときものが貼りついている。カサブタの下には傷があったはずだが、古傷はいま癒えたのだろうか。

 好奇心からはじまった極私的な歴史探索ではあったが、実は長らく留守にしてきた郷里への〝親不孝〟の負い目のようなものを感じていたのかもしれない。この一書を書きあげたことで、少しは肩の荷がおりたような気になったのも事実である。