第409回 意外に近かった! 

前山光則

 10月23日(日曜)、友人につきあってもらい、ふるさと人吉市に行って来た。
 実は、近々、若かった頃のことを思い出し振り返りしながらの書きものをしなくてはならなくなったため、今、準備中なのである。自分自身のことだからたやすく書ける、と気楽に構えていたが、いざ取りかかってみると違う。遠い過去の記憶は結構あいまいなままになってしまっており、それで幾つか確かめたいことがあって出かけた次第であった。
 午前10時半頃には、人吉市の中心部、紺屋町の山田川の畔りに着いた。ここは昭和33年(1958)7月17日まで、つまり生まれてから小学5年生の夏までを過ごした場所だ。家のすぐ裏を山田川が流れており、裏庭からすぐに川原へ下りることができていた。川原でみんなと鬼ごっこやら三角ベース野球やら何やらして遊んだし、川に入って泳いだり、魚掬いをする。潜って魚突きをする、あるいは釣りをする。そして、川はわれわれ人吉東小学校区の者たちと対岸の西小学校区の連中との「境界」だったので、しばしば互いに罵り合い、石を投げ合ったりした。そのような、言うなればワンダーランドである。
 その日は、そこから人吉東小学校までどのくらいの距離があるか、計りたかった。歩いて通学したわけだが、1キロをだいぶん越えていたような気がしていたのである。
 しかし、車についている計器で見てみたら、なんのことはない、800メートルであった。小学校に入る前の1年間はその手前にある藤花(とうか)幼稚園に通ったが、そこまでは700メートル足らず。ははあ、あの頃は時々通園・通学するのがきつくて仕方ないことがあったりしたが、こうやって測ってみると1キロもないのか。拍子抜けしてしまった。
 日曜日だったから、東小学校に人影はなかった。正門から入らせてもらうと、広い運動場のまん中に楠(くす)の巨木が聳えている。そう、これは実に懐かしい。わたしたちの在学中からすでにとてつもなく大きくて、見上げているうちに首が痛くなってしまうほどであった。夏の暑苦しい時季であっても、この巨木の下は影が広がり、遊び疲れた体を休めるには丁度良い場所となっていた。この木は、はじめ、海軍大臣や台湾総督を務めた鹿児島の樺山資紀が明治35年(1902)に人吉に狩猟しに訪れた際、人吉城址の中に植えたものなのだそうだ。それが、後にここに植え替えられたというから、今年はすでに樹齢120年に達していることとなるだろう。
 小学校5、6年次、担任の別府茂實先生から有島武郎の「一房の葡萄」という童話を教わったことが、久しぶりに思い出された。絵を描くことの好きな少年「僕」は、自分の住む横浜の海岸を絵にしたいのだが、良い絵の具がなかった。同級生に西洋人の子ジムがいて、上等な絵の具を持っているのが羨ましくてしかたがない。「僕」はついつい盗んでしまう。だが、やがてバレて、美しい憧れの女先生に言いつけられてしまうのであった。でも、この女先生は「僕」のやったことを咎めるでもなく、「僕」にもジムにもやさしく接してくれる。そして2人を仲直りさせる。しかも、窓の外に繁る葡萄棚から一房の葡萄をもぎって、2人に食べさせてくれるのであった。なんとも優しい女先生だ。

 「僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
 それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。」

「一房の葡萄」は、こんなふうにして終わる。別府先生はこの「一房の葡萄」を朗読してくれて、わたしたちにもくり返し音読させ、何度も書き写しさせた。教室だけでなく、グラウンドにみんなを連れて行き、この楠の巨木の下で朗読してくれたことも幾たびかあった。だから、あの童話は、文体は、すっかり自分の頭の中に棲みついてしまっているような気がする。名作というものをこんなふうに何度も味わうのは、とても大事なことではなかろうか。
 紺屋町から東間小学校までの距離も測ってみた。小学4年生の夏休みに、紺屋町から南へ球磨川の橋を渡り、東間小学校までを歩いて通い、「サマースクール図画工作教室」というのを受講したのだ。つまり、休みの間、いくつかの学校から希望者が集まって、そのような特別講座が行われたわけだ。夏の暑い中をテクテクと通うのは辛かったが、帰ればいつも祖母がヤクルトを買って待ってくれていた。結果的には図画工作の方はちっとも上達しなかったものの、歩いて通いつづけたこととヤクルトを飲み続けたことで自分はメキメキと体が丈夫になった、と思っている。
 そして、家からその東間小学校までは、自分の中では最低4キロ、ともすれば5キロを越えているかもしれないな、という実感がずっとあった。とにかく歩いて通うのがしんどかったのだ。ところが、である。今度測ってみたら、これがたったの1.8キロ。エーッ、その程度の距離であったか。なんとも呆気ない数字であった。
 さらに、相良村の高ン原(たかんばる)というところまでの距離も確かめてみた。そこは、名の通り高原状になっている台地で、戦時中、海軍航空隊があった。当然飛行場が作られていたので、わたしたちが子どもの頃、滑走路がまだちゃんと残っていた。2年先輩で産業遺産研究家の松本晉一氏によれば、滑走路の長さは1500メートル、幅が50メートル。時折りプロペラ機やヘリコプターが飛来するようなところであった。そこへ毎年冬、先生たちも生徒たちも全員が暗い中を歩いて行き、夜明けに兎狩りが行われていたのである。寒くて仕方なかったが、休憩するときには先生たちが焚火をしてくれて、めいめいが自分の持って来た餅やら何やら焼いて食うのだった。わたしはスルメイカを持参していて、焙ってみたら良い匂いがするので、みんなから羨ましがられた。
 さて、肝心の兎であるが、みんなでかなり時間かけて「チョーイ、チョイチョイ」と棒を振り回し、藪くらを荒らしてまわったのだが、仕掛けられた網に兎はかからなかったと思う。しかし、夜が明けてまたテクテクと歩いて学校へ戻ったところが、すでに「兎鍋」と称するものがグツグツ滾って、みんなを待っていた。おいしい、おいしいと言って鍋をつついたのだったが、果たしてあの鍋の中には本当は何が煮えていたのであったろうか。
 そして、肝心の距離である。自分では、高ン原まで10キロほどはあるなあ、と思っていた。だが、今回の計測では紺屋町からの距離が5.4キロしかない。これは、人吉一中から測ってみても大差はないと思う。
 やはり、少年の頃に感じていた距離は、実際とはだいぶんズレてしまっているのであった。しかも、東小学校も東間小学校も高ン原も、大きくなってからでも数限りなく訪れている場所である。それならば、大人になってからの判断がちゃんと自ずから働きそうなものなのに、そうではなかったことになる。自分はいつまでも少年の時のままの感覚で郷土を見ていた、ということか。
 こうした数字がはっきり現れて、一緒に行ってくれた友人も苦笑していた。なんだか照れくさい一日であった。
 
 
 

▲人吉東小学校の大楠 とにかく大きいから、たっぷりと木陰ができる。暑い日に木陰に憩うと、気持ちいい。