前山光則
今年に入って、2月7日から4月4日まで53回、地元の熊本日日新聞の「わたしを語る」シリーズに「球磨川のほとりで」とのタイトルで連載をさせてもらった。生い立ちから現在に至るまでの自身の歩みを綴ったのであるが、こうした書きものは自分としては初めてのことだった。
当然ながら自身の過去を縷々(るる)語らねばならぬので、今回はみっちりとわが75年間を見つめ直す機会を持つことができた。
色いろと過去を振り返った中の一つに、歌人・宮柊二さんのことが甦ってきた。
わたしは、昭和42年4月(1967)から47年3月まで法政大学文学部第二部(夜間部)日本文学科の学生だった。その間、入学した年の12月から翌々年1月18日まで2年2ヶ月、東京都中央区京橋にあった雪華社という小さな出版社の編集部員だった。小出版社だから編集・校正などだけでなく営業部の仕事もしょっちゅう手伝わなくてはならなかったが、毎日充実していた。何といっても本造りに携わっているわけであり、飽きなかった。
東京都内とか近辺に住む著者にはゲラ刷りや史料や本やらを届けたり、原稿を受け取りに行くこともしょっちゅうだった。そんな中で、歌人・宮柊二氏の三鷹市の御自宅に何度もお邪魔した。宮氏は当時の短歌界では名の知られた人であったから、新聞や雑誌などでよく名前は見ていた。そして、「コスモス」という月刊短歌誌を主宰しておられたのだが、同誌には会員たちの分担執筆による「叙情の源流をたずねて」と題された古典秀歌鑑賞の読み物が連載されていた。それを雪華社から単行本化することになり、わたしは担当者から命を受けて宮氏宅に結構ひんぱんにお邪魔していたのである。
宮氏は、あの頃55、6歳ぐらいであったはずだ。まことに温厚なやさしい方で、わたしのような田舎出の貧乏夜学生に対しても接し方がいつも丁寧であった。しかも、額の広い、柔和な笑顔が、なんだか人吉の田舎に居るわたしの父の弟(すなわち叔父)にとても良く似ているのだった。ほんとにソックリだなあ、と、いつも感心していたものである。しかも、宮氏は、若い頃には北原白秋に師事された由。白秋について、何度か懐かしそうに思い出話をしてくださったことがある。ははあ、やはり詩とか短歌の道を志す場合、九州の人間にとっては福岡県柳川出身の北原白秋は一番頼りたくなる存在だったのだろうなあ、ぐらいに受け止めていた。
そう、わたしは宮氏をてっきり「九州出身」と思い込んでいたのである。
御自宅に何回も伺いながら、色んなお話を聞かせてもらったりしながら、なぜかわたしは宮氏の書いたものや短歌作品そのものを読んでみることはしなかった。しかも、その後もずっと宮柊二短歌世界というものには触れぬまま過ごした。
ところが、である。それからずいぶんと年月が経って、平成21年(2009)9月2日午後、「宮柊二氏は九州出身」との思い込みがガラガラと崩れ落ちた!
あれは、女房と一緒に東京へ出かけた折り、ついでに2人で新潟県の方にも足を伸ばしてみたのであった。鈴木牧之『北越雪譜』の舞台である南魚沼市あたりを見て回り、新潟市では、あそこは人吉出身の音楽家・犬童球渓が若い頃に教師生活を送り、「旅愁」「故郷の廃家」を作詞した地である。球渓の勤務した女学校が現在は新潟中央高校なので、そこへ行ってみた。そして、さらには佐渡島へも足を伸ばしてみたのだった。
さて、その新潟県への旅であるが、まず9月1日、東京から出発し、長岡泊。翌日、長岡市在住の作家であり鈴木牧之研究家でもある高橋実氏が南魚沼市の方を案内して下さった。牧之の住んでいたあたりへは言うまでもないこと、縁りの寺や墓所などにも連れて行ってもらった。わたしとしては、『北越雪譜』は高校時代からの愛読書であり、何回読み直したことだろう。現地を実際に訪れたいとの思いはずっと抱いてきたので、念願をかなえることができて大変嬉しかった。
そして、午後には魚沼市堀之内というところへ連れて行ってくださった。魚沼市に「宮柊二記念館」があるから見学しよう、と高橋実氏がおっしゃったのである。ほほう、こういうところに宮氏を顕彰するような施設があるのかと感心しつつ、高橋氏に連れられて館内へ入ったところ、なんと宮柊二氏はその魚沼市で生まれ育った人だというではないか。すなわち、大正元年(1912)8月23日、新潟県北魚沼郡堀之内町(現在の魚沼市)306番地に、父・保治、母ツネの長男として生まれた。本名、肇。昭和62年(1986)12月11日、逝去。享年74……。エッ、ナッ、何?……わたしはすっかり頭が混乱してしまったのだった。
館内をじっくり見学させてもらった。いやはや、九州生まれと思い込んでいた宮柊二像はガラガラと崩れ去ったのであり、実に貴重な1日となった。
あの記念館でわたしにとって最も印象に遺ったのは次のような歌であり、自分の日記帳に書き記している。
冬の夜の吹雪の音をおそれたるわれを小床に抱きしめし母
樵山をかち越えてゆくに雪ふかしするしはぶきもこもりて響かず
この2首は、宮氏が中学5年生つまり16歳の頃に詠んだ作品だそうだ。ほんとに16歳の作だろうか、と訝りたくなるくらいにまとまりのある歌であり、やはり宮柊二氏は豊かな才能があったのだな、と感心する。そして、2首とも北国ならではの風情が詠われており、まさしく宮氏は雪国の人なのである。そうなのか、あの柔和な表情の内側にはまことに厳しい北国の冬が控えていたのだなあ、と感じ入った次第であった。
旅行から帰って以後、岩波文庫『宮柊二歌集』を購入し、読み耽ったのは言うまでもない。当然のことながら、読めば読むほど宮氏の内なる雪国が迫ってきた。あらためて自らの不勉強に恥じ入った次第であった。
土ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生れぐに
文庫版『宮柊二歌集』中、最も印象に残るのがこの歌だ。雪国に生まれ育った人が、いわば自らの宿命を切々と詠っているのだ。
そもそも、出版社の人間として宮氏の家を訪問していたのだから、たとえ本造りの直接の担当者でなくても、その人の書いたものや短歌作品にちょっとでも目を通しておくべきだったわけである。怠慢というしかない。しかも、その後も宮氏の作品を読むことをせず、長年過ごしたのだったから、「超怠慢」「超迂闊」以外の何ものでもない。
あの頃、同じ短歌の分野でも寺山修司氏の作品ならば愛読していた。
向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し
マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
わたしのいた雪華社からは寺山氏の編纂したアンソロジー『男の詩集』が出ており、よく売れていた。寺山氏自身がアングラ演劇の会場や講演会場などで結構販売してくださっていたので、たびたび本を届けに行っていた。あの人の作品は短歌に限らずエッセイや小説等も愛読していた。
寺山氏の書くものが当時の若い層に人気があったのに比べて、宮氏の場合はさほどでもなかった。そのようなところがあって、わたしはやはり宮柊二短歌世界に関心を示さなかったのだなあ、とも思う。
しかし、それにしても、少しでも良いから作品に目を通すべきだったのであり、こうした点については言い訳は利かない。――と、こうした若い頃の恥ずかしい反省点、このたびの連載「球磨川のほとりで」の中で触れるべきか、どうか。だいぶん迷ったが、結局それは書かずじまいで連載を終えてしまった。