前回は鰻を食べた話を書いたのだが、考えてみればあれは淡水に住む魚類の中では最もおいしいのではないだろうか。
ただ、迂闊なことは言えないのであり、人によっては鮎を挙げることだろう。鰻のマッタリした味わいを好むか、あるいは鮎のさわやかな口当たりを良しとするか、人によって、好みによって評価は違うだろう。
それでは、である。淡水魚の中で最もおいしくないのは何だろうか。
いったいに、淡水魚は海に住む魚類と比べたら味わいは地味である。住んでいる環境が違うのだから、いたしかたないことだろうが、その中でも球磨川流域でイダと呼ばれる魚などは、マズイ方にまっさきに挙げられてしまうのかも知れない。
イダは、かなり上流にまでその姿を見ることができる。無論、下流の方にも多いし、河口近くの汽水域にもいるのである。釣って遊ぶにはおもしろい魚であり、普通はミミズやサバ虫をエサに使う。しかし、球磨川最大の支流である川辺川で遊んだ時には五木村の手前あたりで川に入り、弁当のおかずに持っていっていたチクワの切れっ端を試しに使って釣りをしてみた。そしたらすぐにイダが食らいついてきたので、笑ってしまったほどであった。川が増水し濁った状態の時には、サバなど魚の臓物をエサに使ってイダの大物を釣る人もいる。
とにかく、このイダはあまりうまくないのだ。少なくとも、鰻や鮎に比べれば格段に味わいが落ちる。ちなみに、八代に住むある人は、イダのことを「猫またぎ」と冷笑気味に言ったことがある。これは、あんまりマズイものだから、イダが地面に捨て置かれていても猫が無視し、跨(また)いで通り過ぎてしまうほどだ、といった意味合いだそうだ。
いや、このようなことを話題にしてみるのは、最近読んだ宇梶静江著『アイヌ力よ! 次世代へのメッセージ』の中に次のような一節があったからである。
「敗戦後も、食べ物が何もなかった。田んぼに水を引く細い水路に、春になると、四〇センチほどのウグイが上がってきます。そのウグイは丸々太っていて、おなかが赤い。赤い時は、お腹に筋子が入っています。集団で上がってくるウグイを、私たちは川で獲りました。丸太ん棒を二つに切った板をまな板にして、出刃包丁か鉈(なた)でウグイのうろこや内臓を取り、頭から尻尾の先までミンチにするわけです。ちょうどそのころは、田んぼの畦や畑に野ワサビが繁茂していて、ウグイのミンチを野ワサビでいただくのです。ワケギやネギがあれば、みじん切りにして混ぜます。とても美味しかった。これが唯一のタンパク源でした」
この本にはアイヌとしての著者の逞しい生き方が語られており、感動したのだったが、右の箇所に至ってはまたさらに新鮮な驚きを覚えたわけである。宇梶さんは、「ウグイ」と呼ばれる淡水魚を日常的に食用にしていた、と語っている。「これが唯一のタンパク源でした」と語るくらいであるから、よほどに大切な食料であったのだ。
わたしなどは、北海道の河川といえば、いつもなら海にいるサケが産卵期になると川を遡ってくる光景がしばしばテレビ等で流れるので、もっぱらああいうのがいるのだろうか、とか、あるいは、マス。それとか、渓流魚オショロコマや幻の魚と言われるイトウ――恥ずかしいことに、北海道の淡水魚についてはせいぜいこういう魚ぐらいしかイメージできていなかった。しかし、実際には、北海道の河川にもやはり他の地方と同様にウグイとかハヤとかもたくさん棲息しているようなのだ。『アイヌ力よ! 次世代へのメッセージ』を読んで、自分がいかに今までアイヌ民族や北海道について無知であったか思い知らされたことであった。
そして、この『アイヌ力よ! 次世代へのメッセージ』で語られている「ウグイ」は、もしかしたらわたしたちがいう「イダ」ではなかろうか、と思った。
ウグイはコイ科に属するそうだが、コイはきれいな水に棲むものであれば「洗い」(刺身)でおいしいし、「鯉こく」と呼ばれる味噌仕立ての汁を作ってもうまい。だが、ウグイの方はどうなのだろう。
いや、この文章に出てくる「ウグイ」をすぐさまイダと結びつけてしまってはいけないだろう。もしかすると、違っているかも知れない。わたしたち球磨川流域の人間が知っているイダは、唇は確かにコイに似ている。しかし、肌というか、ウロコの方は、なんだかハヤに近い。といっても、ハヤもまたコイ科に属するようではあるのだが……。
ただ、宇梶さんたちが食していたウグイがイダとは違う種類であるとしても、アイヌの人たちはサケやマス、イトウ以外の川魚をあのようにもうまく利用して食生活の中に取り入れているのである。そこのところに、ほんと、感心したわけだった。なにしろ、ウグイのミンチを作り、それを野ワサビと合わせるのだそうであり、ワケギやネギを混ぜることもあるというから、これは大変ていねいな料理法である。著者自身が言うように、必ずや「とても美味しかった」のではなかろうか。
わが球磨川のおいしくない魚イダにしても、このようにミンチにして野ワサビやワケギやネギなどと合わせて食べてみれば、ずいぶんと味わいが違ってくるのかも知れない。だから、とにかく宇梶静江さんらアイヌの人たちの生活の知恵というのは、謙虚に学ぶべきであるなあ、と、しみじみとした気持ちになったのだった。
それからまた、思うのだが、いったいに現代のわたしたちは口が贅沢に慣れきってしまっているのかも知れない。
今でこそわれわれ球磨川流域の住民たちは、イダをひたすらマズイ魚として忌み嫌うようになっている。だが、実は、少なくとも昔の球磨・人吉の人たちはイダを結構よく食べていた。とりわけ寒い頃は「寒イダ」と称され、好まれていた。1年で最も寒い時季、わざわざ川に入ってイダ漁をする人がいたのである。幼い頃、ある冬の日、父に連れられて30分ほど汽車に揺られて球磨村の那良口(ならぐち)というところへ遊びに行ったことがある。駅から歩いて10分ほどの谷川沿いに父の同僚の方の家があって、昼御飯を御馳走してもらった。そして、おいとましようとしたら、そこの人は「今朝、捕ったとばい」といって大きなイダを数匹持たせてくれた。それが「寒イダ」だったのだ。その日のわが家の夕飯には、祖母が早速その寒イダをつかって味噌汁をこさえてくれた。味わいについては記憶がうすれてしまっているが、お代わりしたのではなかったかと思う。
それから、もう中学生になってからのことだが、やはり冬の頃、母方の親戚の婆さんが病篤く、すっかり衰弱してしまった。それで、祖母が見舞いに行ったら、
「イダ、の、刺身が、食おう、ごたる」
切れ切れにそう訴えたのだそうであった。帰宅して祖母がそんなことを言うので、兄とわたしはいたたまれなくなった。冬の寒い時季、ワンパク少年といえどもさすがに川へ行ってイダを捕るほどの勇気は出なかった。その代わりに、兄とわたしは市内の魚屋を、
「イダは売ってもらえんですか」
と尋ねてまわった。すると、町の東方、球磨川べりの魚屋さんに大きな寒イダが入荷していたのであった。さっそく刺身を作ってもらい、親戚の家に駆けつけた。婆さんは実にうまそうにモグモグと口を動かした。そして、数日後にはあの世へと旅立った。思えば、球磨・人吉地方からついぞ出たことのない人であった。かつて交通の不便だった頃、球磨川の上流域には海の魚が新鮮な「ブエン(無塩)」の状態で入荷するなどということはなかった。常に塩物であった。婆さんは、魚の生ものといえば淡水魚しか知らなかったのだと思う。そして、寒イダの刺身は病床にあってさえ食べたい御馳走であったのだったろう。
ああ、本当に、そのようなこともあったよなあ。『アイヌ力よ! 次世代へのメッセージ』を読んだ後、自分の少年時代の記憶までもが懐かしく蘇ってきたのであった。