前山 光則
今日あたり、正月を迎える準備があちこちで見られる。今年も残り少なくなったのだ。
ところで、前々回のこのコラムで犬童球渓を話題にしたが、実はわたしも熊本県人吉市の生まれで、小さい頃から「旅愁」も「故郷の廃家」も音楽の授業等で唱わされて育った。だが、「幾年ふるさと来てみれば……」との歌詞はどうも心にしみわたっていなかった。
少年の頃、「自分にはふるさとがない」と思いこんでいたのである。人吉という町にふるさとらしさを感じることができなかった。なんでまたそのような思いこみをしていたのかと言えば、一つにはまだ人吉から出たことがなかったからだったろう。ふるさと意識というのは、そこから離れて振り返ってみないと湧いてこない性質のものではなかろうか。
そして流行歌にもずいぶんと影響されていたと思う。三橋美智也の唱う「おぼえているかい故郷の村を/便りも途絶えて幾年過ぎた/都へ積み出す真っ赤なリンゴ/見るたび辛いよ/俺らのナ俺らの胸が」(「リンゴ村から」)や青木光一の「おふくろも親父もみんな達者だぜ/炉端かこんでいつかいつしか東京の/お前達二人の話に昨夜も更けたよ/早くコ早くコ/田舎へ帰ってコ/東京ばかりがなんでいいものか」(「早く帰ってコ」)がヒットしたのは昭和31年で、小学校の3年生だった。胸にキュンとくる歌である。こうした流行歌に出てくる「ふるさと」に比べて、自分の住む人吉盆地にはリンゴの木なぞなかった。「早くコ早くコ」などというかわいい言い方はせずに、「早よ来(け)え!早よ来え!」と粗雑に呼びかけるだけだ。囲炉裏(いろり)も、少なくともわが家にはなかった。ふるさとって、どこにあるのか。それはやはり遠いところにしかない、と夢想していた。
つまり、少年期になじんだ流行歌が描き出す「ふるさと」は圧倒的に南国よりも北国が多かったので、知らず知らずのうちにそれは北の方の、例えば寒くて、家には囲炉裏があって、畑にはリンゴが植えられているところでなくてはならない、ことばも九州弁でなく東北弁でないとふさわしくない、というふうにふるさと像が刷り込まれていたのだった。だから人吉にそのようなものがないのがさみしかった。人吉をふるさとと意識し、「故郷の廃家」に表明された熱い望郷の念が実感できるような気持ちになれたのは、高校を卒業して東京へ出てみてからのことであった。
しかも、自分の中に今でも北国へのうっすらとした憧憬がある。犬童球渓の表現したふるさとは地域限定でない普遍的なイメージのものだったと思うが、それよりも「リンゴ村から」や「早く帰ってコ」等の流行歌に表出された北国的ふるさと像の方がもっと訴えてくるのかなあ。いや、どうなのか。年末になってそのような物思いばかりしている。
皆さん、どうぞ良いお年を!