前山 光則
8月11日(土曜)、熊本県人吉市で行われた「種田山頭火の泊まった宿(宮川屋)を検証する会」に参加し、地元在住の那須智治氏の研究発表を聴いた。とても興味深かった。
山頭火は昭和5年9月9日から約四ヶ月、熊本を皮切りに八代・日奈久・佐敷・人吉・宮崎・志布志・大分・福岡と各地で行乞(托鉢)をしながら長旅をしている。そのうち人吉では9月14日から16日まで「宮川屋」という木賃宿に宿泊しているのだが、これが町のどのあたりにあったのか今まで色んな人たちが探したものの分からなかった。那須氏は、今回、それをはっきりさせたのである。
氏の説明によると、宮川屋は人吉駅前を東に行ったところの駒井田町の一隅にあったのではないか、との説が最近まで有力だった。しかし、山頭火の日記を深く読みこんだり、土地の古老の話しを聞いたり、あるいはまた当時の地図や文書やらを当たるうちに、球磨川と山田川の合流点近くの右岸側、土地で昔から出町と呼ばれているところに宮川屋が存在していたことが判明した。ただ、法務局の記録では昭和19年7月20日に流失したとなっているそうである。これは、球磨川流域で死者13名・行方不明9名・家屋流失254戸・田畑流失605町歩・橋梁流失164(熊本日日新聞社・編『熊本昭和史年表』)という大変な水害が発生した時のことを指す。この時に山田川でも上流部で土石流が発生し、球磨川との合流点の出町の河岸も濁流に削られてしまったのである。水害の後、合流点の出町橋の右岸側が永らく仮橋で継いだ状態になっていたが、あれはその水害の痕跡だったのだ、と、那須氏はこのたび初めて気づいたという。つまり、宮川屋のあった場所は、残念ながら川の一部となっているのである。
那須氏は、山頭火の日記の中に「郵便局で留置の書信七通受取る」(9月14日)とあるが、出町には確かに郵便局もあった。あるいは、すぐ近くの老舗旅館では、昔、山頭火とおぼしき旅の僧が訪れた。そこは勝手口が四つもある大きな旅館だったが、若女将が親切に報謝してやった。ところが、翌日また来た。そのときには大女将の方が応対に出て厳しくあしらった、という話が伝えられている。これは山頭火の「けふもよく辛抱した、行乞相は悪くなかつたけれど、それでも時々ひつかゝつた、腹は立てないけれど不快な事実に出くわした」(9月15日)との記述に照応するかも知れない、と那須氏は語った。
山頭火の日記は、優れた日記文学であると同時にあの頃の世相や人情やらを記録した貴重な民俗資料になっている。さらにまた山頭火の泊まった木賃宿の場所を探すことによって、このようにして土地の歴史や興味深い昔の話を掘り起こすことにもなるのだなあ、と、感心した。那須氏の奮闘努力に心から敬礼!