前山 光則
前回、石牟礼道子氏の若い頃の「雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり」等の短歌作品について触れてみたが、次々に湧いて止まない思念や感情が詠まれており、一種切実なものがあった。それにしても、作者にとってなぜ「短歌」だったろうか。石牟礼氏自身は、歌集『海と空のあいだに』のあとがきの中で、こう述べている。
「表現の方法もわからないまま、それなりに七五調にたどりつこうとしているのは、日常語で表現するには、日々の実質があまりに生々しかったからではないか。日記を書かず、歌の形にしていたのは、ただただ日常を脱却したいばかりだったと思われる」
このあとがきは平成元年、61歳の頃のものだから、若い頃の遠い記憶をたぐり寄せての感慨である。分かるような気がする。五・七・五・七・七という音律のもつリズムは、それ自体が現実と異なる世界である。また定型に言葉を当てはめていく際には日常語よりも文語の方がサマになり、しかも文語の語感はこれまた現実と違ったものを醸(かも)し出す。現実のことを題材にしながらも、文語定型で歌を詠めば現実を超越することができる。「ただただ日常を脱却したい」という若い時期、歌を作るたびに心慰んだことだろう。石川啄木流には歌は「哀しき玩具」だが、いやいや定型には功徳があると言う方がいい。
石の中に閉ぢし言葉を思ふなり「異土のかたゐ」のひとりいま死ぬ
まぼろしの花邑みえてあゆむなり草しづまれる来民廃駅
『海と空のあいだに』の最後の方には、このような歌が見られる。昭和37年に詠まれており、作者はすでに35歳になっている。十代後半や二十代前半の頃の作と比べて措辞が整い、歌としての姿が美しいが、その代わりあの溢れるような衝迫は影をひそめている。これは、一つには作者の人間的成熟によりもたらされたものであろう。しかし、もう一つ、この当時の石牟礼氏は水俣にあってチッソの安定賃金闘争に係わるし、水俣病との運命的な出会いも果たしている。並行してさかんに詩を書くし、昭和34年から5年にかけては「愛情論」を、さらに37年には後年の「西南役伝説」の原型となるものを発表したりして散文も手がけている。41年からは「熊本風土記」に「海と空のあいだに」(単行本化の際に『苦海浄土』と改題)が載りはじめるのである。抱え込んだ現実の大きさや作者の言語による格闘が嵩(かさ)んでいって、もはや短歌という器には収納不可能なものとなっていったと思われる。
つまり、いつの時点でか石牟礼氏の中で歌との訣(わか)れがなされていたのではなかったろうか。そんな気がしてならない。