第187回 幼時の記憶

前山 光則

 最近、夢野久作の「父杉山茂丸を語る」というエッセイを読んでたいへんおもしろかったのだが、首をかしげる場面もあった。
 冒頭、父親について「白ツポイ着物に青い博多織の帯を前下りに締めて紋付の羽織を着て、素足に駒下駄を穿いた父の姿が何よりも先に眼に浮かぶ。その父は頭の毛をクシヤクシヤにして、黒い関羽鬚を渦巻かせてゐた」と回想するのだ。「筆者の二歳か三歳頃の印象と考へていい」のだそうで、これに対して父親の茂丸の方は27、8歳だったようである。この「父杉山茂丸を語る」は、昭和10年、夢野久作46歳の時に発表されている。その時点で回想された幼時の記憶であるわけだが、えらく具体的で詳しい。久作がこの記憶を母親に話したら、その通りだ。ただ、帯の色については、青色ではなかったと思う。お祖父ちゃんの帯ならばいつも青かったけどねえ、と母親は答えたのだそうである。
 夢野久作は、満2歳の時に見た博多駅開通式の様子を「其の夜が満月であつた」などと断言して年寄りを驚かしたこともあるくらいで、自分の記憶力に自信があったようである。だから父親のことを語る際に、ためらわずに幼い頃の記憶を持ち出せるのだろう。だけど、本当なのだろうか。よちよち歩きの、まだもの心の「も」の字も備わっていない時期、そんなにはっきりと自からの見聞が脳味噌に刻まれるものなのだろうか。もしかして、後になって周囲の人たちから自身の幼時の様子を聞かせてもらううちに自分の記憶として刷り込まれていったのかも知れず、ちょっと疑わしいゾ、というのが正直な感想である。だが世の中には記憶力の強い人が結構いて、近ごろ読んだ石牟礼道子氏の自伝『葭の渚』、あの中でも、どうしたって3歳頃のこととしか考えられないような出来事が確かな思い出として物語られている。凄い人は凄いのである。
 わたしなどは、ふるさとの寺に藤花(とうか)幼稚園というのがあった。そこへ通うのが実に楽しくて、毎日、まだ暗い内から早起きして出かけ、寺の門が開くのを待っていた。ただ、怖いこともあって、悪さをすれば納骨堂に閉じこめられるのである。ある日、T君が女の子をいじめたので、お仕置きを受けた。ガシャンとお堂の戸が閉まり、T君は「もうせんです、せんです、ワーン」と泣き叫ぶのだった。しばらくして園長先生が戸を開けたときにわたしたち園児も中を覗き込むと、T君はグッタリしていた。彼の背後に仏像が鎮座していたが、その傍らになぜだか雀の亡きがらが干からびていたのが忘れられない。 
 幼稚園時代の記憶だから、6歳頃ではなかったろうか。この程度がわたしの自信持って語れる最も古い幼時の記憶である。2歳とか3歳の頃のことなどまったくの闇で、なんにも覚えていない。凡人だからこの程度の記憶力しかない、ということなのだろう。
 
 
 
写真 枇杷の実

▲枇杷の実。近所を散歩していると、あちこちで枇杷の木を見かける。すでにもう充分に熟していて、食べ頃だと思う