前山 光則
前々回、ドナルド・キーンとツベタナ・クリステワの講演録『日本の俳句はなぜ世界文学なのか』(弦書房)について感想を記したが、あの後気分が乗って本棚から松尾芭蕉の本を引っぱり出し、「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」等を次々に読みふけった。芭蕉はおもしろいなあ、と、今あらためて感じ入っている。
「奥の細道」は、宮城県の塩竈神社や松島、岩手県平泉の中尊寺等が出て来て、自分でも旅行の途次に立ち寄ったことがあり、もっと詳しく見てみるのだったなあと悔やまれる。最も惹かれたのが、越後の市振というところで遊女と同宿する場面である。遊女が、自分はこれからの道中どのようになるやら不安でならぬので、どうかご一緒してもらえぬかと懇願する。芭蕉と弟子の曽良は、自分たちはあちこちで滞在しなくてはならぬ、だからご一緒することは無理で、「只人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙なかるべし」と申し出をことわって宿を出るのだが、「哀れさしばらくやまざりけらし」、身を切る思いだったようである。ここで詠んだのが「一つ家に遊女もねたり萩と月」である。
「野ざらし紀行」にも胸の痛む場面が書かれている。駿河の国の富士川のほとりを歩いている時、三歳ほどと思われる捨て子が哀れげに泣くのに出くわす。暮らしに困った親がこの子を川へ投げ込んでひと思いに楽にしてやろうとしたが、いざとなったらそうはできずにこうして「捨て置きけむ」と芭蕉は推し量る。助けてやりたいものの、自身も明日はどうなるか知れぬ身、袂から食べものを投げ与えて立ち去るしかない。「猿を聞く人すて子にあきの風いかに」と句を詠んで、「父はなんぢを悪(にく)むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」と記す時の芭蕉はなかなかに厳しい顔つきだったのではなかろうか。
どの紀行文も、旅の要となる事柄や思いを簡潔に叙してある。その掘り下げ方や省略の按配は実に見事だが、しかしながらこのような切ない人間模様が描かれている。しかもそれは、明日はどうなるかもしれぬ困難な旅の一断面である。芭蕉の旅がいかに捨身懸命のものだったかが、惻々と胸に迫ってくる。飽くことなく旅を繰り返した芭蕉。「奥の細道」の最初の部分で「漂泊の思ひやまず」と記すのは、困難を百も承知の上で旅したい思いが抑えられなかった、真からの心の疼きだったろう。いや、紀行文に記した旅に限らず、29歳で故郷の伊賀を出て江戸へ下ってから51歳の秋に客死するまで、芭蕉の人生そのものが旅で、漂泊であったのではなかろうか。
芭蕉は西国をめぐる旅の途中、大阪の花屋仁右衛門邸にて没したわけだが、もし永らえて歩き続けていたら九州へも来たのだったかも知れないなあ。そんなことも思ってみた。