第314回 わりとリラックスして喋れた

前山 光則

 11月6日の午後4時半に、病院の方からホテルに迎えの車が来てくれた。
 えらく大きな病院である。関連施設までを含めると職員数が700名を超えるそうだ。到着して、病院のカウンセラー室でコーヒーを飲ませてもらいながら院長さんからあらためて講演依頼の主旨を聞いたのだが、「患者さんとしての気持ちを聞きたい」とのこと。医師や看護師などの医療スタッフは、日頃忙しく時間に追われながら患者と接している。見落としのないよう、病状や体の状態については注意を払っている。しかし、患者たちがどのような気持ちで日々を過ごすのか、内面の葛藤を意外と知らないままである。そういう面に医療スタッフは耳を傾けるべきではないか、と、それでわたしに声がかかったのだそうだ。言われてみれば、日頃熊本大学病院や地元八代市の病院に世話になっているが、体の状態についてはいつも丁寧に聞いてくださる。しかし病気療養しながら何を思いわずらうか、訊ねられたことがあったろうか。なかったなあ。考えてみれば、これは大事なことなのだ。大事なことがおろそかにされていると気づいた海老名総合病院の人たちは、なかなかなものだ。来てよかったゾ、と思った。
 だから伸びのびとした気持ちになることができて、午後5時半過ぎから1時間余、自分の5回の癌がどのようなものであったか、抗癌剤点滴や放射線照射の際の副作用であるひどい吐き気やだるさ、喉の火傷状態などにどう耐えたか等々、喋ったのであった。自分としては、入院していて最も気持ちが落ちこむのは夜になってからの時間帯であった。暗い中、ロクな事は考えない。自分は死ななくてはならないのではないだろうか。死んだら、家族はどうなるだろうか、などと後ろ向きの懸念だけが次から次に湧いて眠れなくなる。だから、病室は相部屋が好かった。同室に他人がいると、気がねして嫌になることもあるものの、気楽にもなれる。自分一人でないから、陰気な発想に直面しなくて済むのである――喋ってみると、あれやこれやと次から次に話題は出て来た。我ながら、入院中いろいろ思い悩んでいたのだなあ、とあらためて自覚することができた。
 だが、やはり何と言っても癌と向き合うことで自分のものの考え方は俄然変わってきたのだ、と思う。
 
 
   柱時計      淵上毛錢
 
  ぼくが
  死んでからでも
  十二時がきたら 十二
  鳴るのかい
  苦労するなあ
  まあいいや
  しつかり鳴つて
  おくれ
 
 
 少なくとも、病気を経験する前、この毛錢の「柱時計」に感応するということなどなかった。でも、癌となってからは違った。自分を鍛えていない人間にとって、死の予感は怖いだけだ。もし自分が死んでしまうようであれば、世界は止まってしまってほしい。凍りついてほしい。まわりの人間は自分の死を泣き叫んで防いでもらいたい、などと甘っちょろいことを考えて悶える。しかし、鍛えた病者は違う。落ち着いているわけで、自分が死んでも、世界はちっとも動じず、コチコチと時を刻み、いつもの動きを繰り返すだけだ。世界とはそういうものであるとの認識を、ベッドの上で時間をかけながら納得し、覚悟してゆくのである。毛錢はそれを若いうちに行なった。そして、結果、寝床から柱時計を眺めて「苦労するなあ/まあいいや/しつかり鳴つて/おくれ」と詠うわけだ。十数年もの間病床に繋がれた果てに35歳の若さで亡くなった詩人。ここまでの境地に至るには、それこそ内面の苦労がとても大変だったろう。
 ――講演では、そこのところまでを喋った。
 
 
 
海老名総合病院

▲海老名総合病院。田園もまだ残るような郊外に、この病院はある。ここだけでなく、他の場所にも関連する施設があるのだという