前山 光則
最近、学生時代に同じクラスだった友人から便りが届いた。昨年出たわたしのエッセイ集『ていねいに生きて行くんだ――本のある生活』(弦書房)を、書店で買って読んでくれたのだそうだ。エッセイ集には東京時代のことも結構書いてあるので、彼としては「なつかしかった」そうである。そして、
「飲みに行く時、君はポケットに竹刀の鍔を入れて、いざ誰かとケンカをした時は、それで殴って逃げると話していた」
こんなふうな思い出も綴ってくれており、わたしは恥じ入ってしまった。エッセイ集には、そのようなことは書いていない。というか、すっかり忘れてしまっていた。しかし、彼は懐かしさのあまりわたしの昔の姿がありありと蘇ってきたのであろう。
確かに、東京時代、「飲みに行く時」だけでなくいつもポケットに竹刀の鍔を忍ばせていた。「鍔」といっても、プラスチックでできているのだが、堅いことは堅い。だから、喧嘩というか格闘をせざるを得ない時にこれの穴に人差し指・中指・薬指を束にして差し入れて、握りしめる。そうして目の前の敵にパンチを入れるなら、素手で闘うのよりもずっと効果的にダメージを与えることができる、だから、不測の事態に備えて常に竹刀の鍔を携帯すれば、なんとかなる、と、こうした野蛮な知恵を授けたのはわたしの兄だったか、あるいは誰か同郷の先輩であったか。
思えば、九州の山と山に囲まれた盆地の町から東京へ出て行ったわたしにとって、東京という大都会は夢と希望に溢れた新天地だった。だが、それと同時にたくさんの人が蠢いて、物騒で、いつなんどき災難に襲われるか予測のつかぬ、危険に満ちた魔境だった。とりわけ、新宿歌舞伎町やら浅草の裏路地あたりへ踏み込んだら、ヤクザ風の男がうろついていたりポン引きが手を引きに来たり、油断できぬ気配が常に漂っていた。田舎者のわたしは緊張していた。
護身術としては、柔道の心得が少々あったものの、それだけで事に対処できる自信はなかった。だから、大学の夜間部(法政大学第二文学部)での体育の授業には、1年間通して同じスポーツに取り組んで構わぬということだったので、ボクシングを選択した。担当の教授は体育館に来て指示をするだけで、実際の場面では昼間部のボクシング部の学生たちが指導してくれるのであった。わたしたち夜間部の学生は、体育の授業の度に彼らからボカスカとパンチを浴びていたが、それでも、これで鍛えておけばいざという時には敵に対抗できると信じ、一所懸命に教わった。ボクシングのフットワークや殴り方や防御法やらを身につけておき、しかも、右手に竹刀の鍔を握った上で相手にパンチを浴びせるなら、かなりなダメージを与えることができるであろう。その上で組みついて投げ飛ばせば、絶対にこちらの勝ちである。
もっとも、実際に鍔を使用したことはなかった。
東京にはかれこれ6年間いたが、格闘した経験はたったの一度だけだ。ある夜、学内で全共闘の中核派と革マル派が内ゲバをやっていた。たまたまそこに通りかかったら、革マル派の中に同じクラスの女子学生がいて、かわいそうに彼女らは中核派の学生たちから袋叩きに遭っていた。奄美大島出身の、頬が赤くて、つぶらな瞳で、ヘルメットを被って政治運動するにはまったく似合っていない女の子だった。わたしなどは学生運動にはまったく関与しない、いわゆるノンポリ夜学生に過ぎなかったのであるが、見るに見かねてその場に飛び込んだ。中核派の連中を殴ったり、投げ飛ばしたりした上で、安全な場所までどうにか彼女を連れて行ってやったのであった。東京時代に大立ち回りをやったのは、後にも先にもこの時だけであるが、しかし、その乱闘の際に竹刀の鍔を使用した記憶はない。思えば、ポケットに手を入れる前には素早く動いて投げ飛ばしたり殴ったりしなければ、相手からやられてしまっていたろう。鍔の威力よりも、なにより素早く動いて闘うこと、それが最も肝腎な対処法だったわけだ。
学生運動が盛んだったあの頃のことで言えば、『ていねいに生きて行くんだ――本のある生活』の中の「昭和四十四年一月十八日のこと」には、東京大学の安田講堂前での光景を書いた。そして、「あのとき、用心のためすでにレモンを持参していた」とあるのは、実際そうだった。これは、当時安アパートに住んでいたのだが、同じアパートに東京大学の学生が住んでいて、彼が教えてくれた。当時、色んなところで機動隊と学生たちとの衝突が見られた。機動隊は、学生たちを追い払う方策の一つで催涙弾を発射していた。たまたまそのような場面に行きあわせると、催涙ガスが町中に立ちこめて、目がヒリヒリして、涙が止まらず、いつも困っていたのであった。そういうときには「レモンの絞り汁を目に塗ってごらんよ。ヒリヒリが治まるから」と東大生は教えてくれた。彼はノンセクトの活動家だったので、安田講堂攻防戦の折りにはもしかしたら講堂の中に立て籠もっていたのかも知れない。
竹刀の鍔を使わずじまいだったのに比べて、レモンは、別の場所でも何度も使用した。当時はそのようにも機動隊と学生たちとの衝突は頻繁だったのだ。しかし、同世代にそんな話をしても、たとえ学生運動に熱心だった人であっても「へーえ、そんなことやってたわけ?」と珍しがられる。してみれば、あまり広くは知られていない催涙弾対策法だったのであったろうか。
竹刀の鍔については、今度の手紙が来なかったら自分から思い出すこともなかったか知れない。レモンを持ち歩いた記憶なども、この頃は自分自身が忘れがちである。なんといっても、遠い遠い昔のことなのだなあ……。