第376回 三上親子と月明学校

前山光則
 
 前回、高校時代に月明(げつめい)学校こと八ヶ峰分校までどうやって訪れたか、思い出話を語らせてもらった。ただ、肝心の三上秀吉・慶子親子と八ヶ峰分校のことについては、わたしのエッセイ集の中ではこの連載コラム第194回「『月明学校』と狗留孫渓谷」の分が収められているのだが、わりと簡単にしか触れ得ていない。そこで、この際だから、部分的に記述の重複するところが出てくるとしても、もっとちゃんと分かってもらえるように詳しくまとめておこうと思う。
 とにかく、かつて熊本県球磨郡上村(現在、あさぎり町)と宮崎県飯野町(現在、えびの市)との県境近く標高約450メートルのところに小さな学校があったのである。校名を上村立小学校中学校八ヶ峰(はちがみね)分校といい、「月明学校」とも呼ばれて親しまれていたが、昭和44(1969)3月に廃校となった。
 この八ヶ峰分校があったあたりは白髪岳(しらがだけ)(標高1417メートル)の西麓に位置し、狗留孫(くるそん)渓谷と呼ばれ、川内川(せんだいがわ)の最上流部すなわち水源地である。白髪岳の山中から発した川内川が狗留孫の谷を南流し、もう一つ西側の又五郎(またごろう)谷からも渓流が流れ落ちてきて合流する地点、そのちょっと下、県境の熊本県側に八ヶ峰分校はあった。人吉盆地の側から行く場合にはあさぎり町の白髪岳北麓、権現谷(ごんげんだに)から榎田(えのきだ)林道を辿れば、道が細い上にクネクネと折れ曲がっていて、普通の車で登り口から1時間余かかる。しかし、逆に宮崎県側からは道が良くて距離も短く、えびの市のJR飯野駅前から川内川沿いに車で30分か40分程度でいくことができる。ついでに言えば、川内川と又五郎谷の谷川との合流点の宮崎県側には狗留孫神社があり、昔は修験道の修行場だったそうである。庶民層からも篤く信仰され、春には球磨郡側からも宮崎県えびの市側からも「お水貰い」と称してお詣りに行く人が多かったところである。
 この渓谷一帯は「秘境」で、たとえば昭和5年(1930)7月には又五郎谷の方で山林伐採を業とする無登録住民が百数十人発見されて話題になったことがあるそうだ。又五郎谷はかつての一武村(現在、熊本県錦町)の飛び地であるが、発見されるまで一武村の役場の方ではまったく関知していなかったわけである。それほどに村の中心部から隔たっており、隠れてしまっていた地区だったのである。
 そのようにも辺鄙な狗留孫渓谷一帯、それでも明治末期には夏期限定の教授所が開かれたり、大正5年(1916)になると谷奥に金山を見つけに来た人が村人たちから頼まれてしばらく子どもたちの勉強を見てやったことがあったそうだ。村人たちはこの人を「金山先生」と呼んで親しんで、八ヶ峰に教場まで建ててもてなしたが、残念なことに長続きしなかったようである。次に来た人も短期間で谷間を去ったらしい。そのようにして、この谷間ではまったく教育の灯が点らなかったのでなく、申し訳程度のことは行われてきたのであった。
 こうした覚束ない状況を憂えた水間繁(日州林業社長)という人が、知り合いの作家・徳冨蘆花にどうにかならぬかと相談する。蘆花は熊本県水俣の出身であり、一世を風靡した小説「不如帰(ほととぎす)」等で知られた作家である。水間氏は実業家ながら理想の村を造って学校も建てたい、という気持ちを持っていた由である。蘆花はこれに理解を示して、当時有島武郎のところへ出入りしていた青年・龍田秀吉(たつた・ひできち)氏を水間に紹介する。龍田氏は龍田氏で、若きトルストイアンであった。当時、熱く理想に燃えていたということである。こうして大正7年(1918)の春になって龍田氏が赴任してくる。龍田氏は明治26年(1893)、和歌山生まれ。当時、24歳であった。八ヶ峰の道路上の空き地に新たに校舎と運動場(約200坪)が出来上がり、熊本からもう一人教員も加わって本格的な教育活動が始まったそうだ。学校は、当時から「月明塾」とか「月明学校」などと愛称がついていたようである。龍田氏は若いながらに色々の文学者と交友があり、武者小路実篤などは大正7年(1918)に宮崎県木城町(きじょうまち)に理想のコミューン「新しき村」の候補地を探しに来た折り、会いに来てくれている。武者小路と龍田氏は小林市の旅館で会って、色々のことを親しく語り合ったそうだ。また、翌年は龍田氏の方から木城の新しき村を訪ねて行き、その時は志賀直哉と初めて会っている由である。龍田秀吉氏は、そのような文学青年であった。しかしながら、大正9年(1920)になって龍田氏の書いた小説が県当局から社会主義者のごとくに見られ、居づらくなってしまい、同年の9月にとうとう八ヶ峰を去って東京へ戻って行った。
 龍田氏は、その後、志賀直哉に師事して小説家を志した。雑誌「婦人の友」の編集長を経て、やがて本格的に小説家として一人立ちし、また昭和の初め頃には結婚して三上(みかみ)家の養子となる。したがって、その後の龍田氏は「三上秀吉」の名で活躍することになるが、結婚後わずか5年で妻に死なれてしまった。以後は、長女慶子さんとの2人暮らしをしながらの文筆生活であった。
 時を経て、太平洋戦争も日本の敗色が濃くなった昭和20年(1945)の初め頃、かつての教え子である堀添絹子やその姉と三上親娘との間に交流が復活する。連絡をつけてくれたのは、三上秀吉氏と同じ和歌山県出身で大逆事件を描いた小説「宿命」等で活躍した作家・沖野岩三郎であったという。折りしも、三上親娘は激しい空襲にさらされる東京を離れて疎開したく願っており、教え子たちは恩師の安否を気遣って八ヶ峰で安全に過ごしてほしい、さらには土地の子どもたちに勉強も教えてやってもらえないだろうかと希望したのだそうである。こうして、同年4月、三上父娘は東京からやってくる。国鉄飯野(いいの)駅で下車、そこからは営林署の森林軌道の機関車に揺られて八ヶ峰に到着。ちなみに、この森林軌道は「飯野森林鉄道」と呼ばれて狗留孫渓谷の奥の方までレールが敷かれ、途中で又五郎谷へも分岐するという、全長約31キロのたいへん規模の大きなものであった。当時、三上秀吉氏は52歳で、もはや決して若くはなかった。一方、娘の慶子さんは昭和3年(1928)生まれ。当時、東京の恵泉(けいせん)女学園を卒業したばかりの17歳であった。2人はさっそく分教場での教育活動を開始するが、土地の人たちの生活感覚のズレや子どもたちとの関係の持ち方には苦労する。

 せまい校舎で、時々部落の婦人会の竹槍の練習があり、B29が谷の空を高く飛ぶこともあった。どうしていいかわからない中を、ただ一生懸命に授業して日は過ぎていった。しかしまず言葉を理解することからして簡単にはいかなかった。方言を使ったかなばかりの作文を読むことは、どうしてもできなかった。子供たちも言葉にと戸まどったかもしれないが、それ以上に、私たちの方がむつかしかったと思う。球磨弁鹿児島弁、日高弁等の幾種類かの方言が混合している山村であるから、はじめて、部落の人との会合に出た時は、外国にいるような気がした。子供たちは、「どこまで本を読むのですか」ということを「どこずいじゃろか」という。高等科の女の子が、私よりませた顔つきで本を持って字を聞きにきた。そして、
「先生、この字を教えなさい」
というのには驚いた。子供たちは、本を持って字を聞きにくる習慣をもっていたが、 覚える習慣はなかった。「高等科農業」というような分厚い教科書の隅々にまでふりがなを書きこんでいたが、作文は、片仮名とひら仮名の混合であった。
                            (三上慶子『月明学校』)

 とりわけ8月15日に戦争が終結し、平和が戻ってきたのは良いとしても、住民たちの間にやくざ踊りが流行ったりして頽廃的なムードがはびこり、それはまた子どもたちに影響していった。盗難にも遭ってしまう。そのような中での教育活動、悪戦苦闘の日々が続いた。ちなみに、文中「日高弁」とあるのは和歌山県日高地方の方言を指す。狗留孫渓谷に住んだ人たちの中には、和歌山県方面から移って来た山林労務者が結構いたのである。
 そのように苦労が多かったが、しかし2人の努力は少しずつ実を結び、昭和21年12月には分教場は上村(うえむら)小学校の分校として認められ、校名が「上村国民学校八ヶ峰分教場」となる。次の年には「上村立上村小学校八ヶ峰分校」と改称され、やがて校舎の新築工事も始まる。25年春には校舎100坪・運動場300坪、中学校の校舎も部落集会場の名目で完成し、教育環境が整っていった。
 このような三上父娘の奮闘努力ぶりが世間にも伝わっていき、昭和25年(1950)10月23日、皇太子(現在の上皇)の家庭教師だったエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人が飯野森林鉄道の機関車に乗って八ヶ峰分校の見学に訪れた。夫人は三上父娘や生徒たちと会って交歓し、来訪の記念にと校庭の片隅にケヤキを植樹する。これは、現在、見上げると首が痛くなってしまうくらいの巨木に成長している。
 翌26年の4月には、三上父娘の教育活動に対して西日本新聞社文化賞が授与された。またその二ヶ月後には三上慶子さんの書いた『月明学校』が東京の目黒書店から刊行された。これは、八ヶ峰分校で父娘が生徒たちとどう向き合って日々を過ごしたかが丁寧な筆致で綴られ、また生徒達の作文も収録されている。発売後たちまちベストセラーとなって版を重ね、これが機縁となって八ヶ峰分校には全国から文房具や衣類など贈り物が相次いだという。版元が破産して後は、社会思想社の社会教養文庫に収められて、再びロングセラーとなった。そのようにしてこの著作は反響を呼び、各方面から好意的な目で見られたのであるが、特に民俗学者の宮本常一は著書『私の日本地図11阿蘇・球磨』の中で「三上慶子さんの『月明学校』は何回読んでも心のあたたまる本だ」と高く評価している。
 三上父娘は昭和28年(1053)になって八ヶ峰を去り、秀吉は東京で作家生活に戻る。娘の慶子は上村の本校からの要請で英語講師として1年間勤めたり、人吉市の中学でも教鞭を執った後、やはり帰京する。そして自らも作家の道を歩み、やがては能楽評論家としての活動も行なった。秀吉氏は昭和45年(1970)に逝去、享年77であった。娘の慶子氏の方は、平成18年(2006)に78歳で亡くなった。
 2人が去った後の八ヶ峰であるが、昭和28年9月、分校は上村中学校の分校としても正式認可された。「上村小学校中学校八ヶ峰分校」と称されることとなったわけである。これによって、それまで狗留孫渓谷(又五郎谷を含む)一帯につきまとっていた「義務教育免除地」というレッテルはなくなった。三上父娘の努力は、このようなところにも実を結んだことになる。
 ただ、その後、狗留孫渓谷は様相が大きく変わっていった。山村の生活を支えてきた林業はあいかわらず盛んであっても、渓谷に道路が開通することで便利になり、生活形態に変化が生じていく。渓谷の中に住む人の数は急速に減少し、平地で住みやすいえびの市の方に居住するようになり、そこからバイクや車で渓谷へ通って山仕事に従事するという生活形態が主流となった。その結果、昭和36年(1961)、かつては渓谷の物資・人員運搬の大動脈として機能していた飯野森林鉄道が廃線となる。昭和40年代前半には渓谷内に人家はほぼ消滅し、八ヶ峰分校も昭和44年(1969)3月19日の廃校式を区切りとして使命を終えた。 
 学校教育に関心を持つ人ならば、この八ヶ峰分校での父娘のことやその日々を綴った『月明学校』に接してみて、すぐに思い起こすことがあると思う。それは、無着成恭(むちゃく・せいきょう)編『山びこ学校』である。無着成恭氏は昭和2年(1927)、山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)の曹洞宗の寺に生まれるが、師範学校を卒業後、教員となる。昭和23年(1948)に南村山郡山元(現在の上山市山元)村立の山元中学校に赴任。これが無着氏の教員生活の出発点となるのだが、たいへん意欲的に教育に取り組み、特に生徒たちに自身の生活環境や境遇についてあたう限り客観的に見つめ、考えさせる、そしてそれを表現させるという、いわゆる「生活綴り方」を推進していく。その成果の表れが無着氏の編集による文集『山びこ学校』である。この本の出版は昭和26年(1951)で、奇しくも『月明学校』と相前後するように世に出たものだから、両書はいわゆる「学校もの」のさきがけをなしたことになる。したがって、北国の『山びこ学校』に対して南国九州の『月明学校』というようになにかと話題になったようである。無着氏はそうした比較のされ方に批判的で、「『月明学校』への手紙」と題したエッセイをまず「今、この手紙をしたためようとしましたら、子どもたちが寄ってきて、『先生は何をかくんだろう。』という目つきで、ペン先をじっと見つめています」と書き出した上で、そして生徒たちと次のような会話を交わしている。

 「先生、ゲツメイ学校って、どう書いたのや!」
 「月(つき)の明(あかり)と書くんだ」と答えると、
 「月の明り。ふーん。ほんでは、たいしたことないな。月の明りは、太陽の反射光線だ もの。自分の光でないもの。」と、言ったので、みんな再び、どっと笑ってしまいました。
 「その月明学校が、今、山びこ学校と同じように、日本の教育のために有名になっているから、その、月明学校の女の先生と、私と二人に原稿を書くように、と言ってきたんだ。それで、その原稿を書くのをことわろうと思ってこの手紙を書きはじめたんだ、だってそうだろう。そんな原稿を書いたって、日本の教育のために、ちっともならないと思うんだ。私の仕事は、原稿を書くことではなくて、みんなを、すこしでもりっぱな人間になるように育てあげることだろう。そうだとすれば、そんな原稿を、一日も二日も考え考え書くよりも、その時間で、みんなと一緒に遊んだ方が、よっぽど、日本の教育のためになるね。な、みんな、そうだろう」

 いかにも優れた教育実践家・無着成恭氏らしい、核心を衝いた言い方である。ただ、当時そのようにも辺地の学校教育に関して両書が関心を持たれ、話題にされていたことはどうしようもない事実だったのであった。
 そこで、『山びこ学校』と『月明学校』を対比させてみると、おのずから違いが見えてくる。無着の『山びこ学校』には、生徒に現実生活への目を開かせ、それをあたう限り客観的に観察し捉え直した上で綴り方を書かせていきたい、という方法意識が存在した。当時まだ新米教師で経験不足だったにもかかわらず、確固たる信念があったので、これが無着氏の方法のたいへん優れている点であり、氏の授業を受けた生徒たちは知らず知らずの間に自分たちの生活の中に現実を見るようになっていった。大人も驚くような鋭い観察や思考が展開するから、「山びこ学校」収載の生活綴り方は現在の時点で読み直しても瞠目するような秀作が揃っている。
 これに対して三上父娘の八ヶ峰分校での教育には、『月明学校』を読む限りそうした「方法」は見られない。無着が教育実践家としての方法意識をハッキリ持った専門家つまり「玄人(くろうと)」だとすれば、八ヶ峰の2人は、いわば教育に関して全くの「素人(しろうと)」だったと見なして過言でなかろう。ただ、では2人の分校での教育は山びこ学校のそれに対して劣っていたかといえば、そうではないと思う。教育方法は明確になくとも、三上秀吉氏にはプロの作家としての知識・教養、作家になる以前に編集者として経験した豊富な社会的知識と人脈、また娘の慶子さんには女学校卒業したての怖いもの知らずの熱意、パワーがあった。それに加えて2人ともたいへんヒューマンな人柄であり、生徒たちに自身の持つ知的貯えをすべて提供するという点でとても献身的であった。こうしたことはいつの世にも共通するのかも知れないが、特に戦中・戦後という時代は、教育現場にそのような全き素人のパワーが発揮され得る余地がたっぷりとあったと言えよう。慶子さんの『月明学校』からは、2人の無手勝流の奮闘努力によって生徒達が次第に明るく知的に成長していった経過を生き生きと見て取ることができる。それを八ヶ峰分校における教育実践の稀有なる輝き、と呼びたく思う。物に恵まれ、なにかにつけて便利になった現代、こうして素人が辺鄙な山の中で素手で分校教育に取り組んだ過去がある、ということは知っておく必要がありはしないだろうか。忘れてはならないと考える。
 八ヶ峰分校が廃校となってから、早や半世紀余が経った。現在、分校跡は鬱蒼たる森林と化し、建物は残っていない。校舎の土台石・記念碑は、薮をかき分ければようやく確認することができる。そして、ヴァイニング夫人が手植えしたケヤキは堂々たる巨木になっているものの、まわりの杉の方がもっと背が高くたくましく成長しているため、これもまたよく注意して探らないと確認できない状態になっている。
 ただし、ここへ立ち入るには山林の持ち主である林業会社の許可を得なくてはならない。その許可が、なかなか得られないのが実情だ。わたしなどは、そうした事情を知らぬまま数年前に立ち入って分校跡を見ることができた。だが、以後は事情を知ったから入山を控えている。
 狗留孫渓谷は、登山する人や渓流釣りをする人たちに親しまれ、渓谷の宮崎県側にはキャンプ場があって夏場は特に賑わう。しかし、森林の中に埋もれたままの八ヶ峰分校跡やヴァイニング夫人手植えのケヤキのことが話題にされることはなく、つまりはまったく忘れ去られた状態である。
 ただ、旧飯野町や旧上村あるいは人吉市内の高齢者たちの中には、まだわずかながら「月明学校」のことを覚えている人がいる。
 参考までに触れておくが、一帯のことを知るには三上慶子『月明学校』の他にも堀添絹子『炭山に生きる』(昭和56年、日本経済評論社)がある。著者は、三上秀吉氏が戦前の若い頃に八ヶ峰で教鞭を執った時の教え子の一人である。地元に生まれ、育ち、永年山仕事を続けた人による庶民生活史なので、『炭山に生きる』は『月明学校』とはまた違った面白さがある。

▲八ヶ峰分校(三上慶子著『月明学校』所収)。